〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/12/27 (月) 『新・平家物語 (十六)』 P−303 〜 P−308

「なに」
と、しり眼をくれながら、弁慶は、わざとまた、落ち着き払って。
「なおまだ、御不審の候うか」
ただ さねばならぬ儀は、これからぞ」
「いかなる儀を」
「さいぜん、富樫殿へ申すことを聞けば、客僧たちは、大仏殿建立こんりゅう 募財ぼざい のため、諸道へ派せられた勧進かんじん しゅう の由、ならば、東大寺の印可いんか は、御所持であろうな」
「もとよりのこと、それなくして、なんで世の浄財を、わたくしつの りえようか」
「ならば、まず勧進の文を、お見せあれ」
「おう、いとやすいこと」
弁慶は、後ろにいた仲教へ目くばせして、おい の中の一巻を取り出させた。
そして、おごそかに、
「これは、ぞう 東大とうだい 長官藤原行隆卿と、勧進の大上人重源の御加判あるもの。かかる不浄な場所にて、見せ示す物ではないが、御疑念を持たるるは心外。つつしんで、拝されよ」
と、巻きの文を、彼の方向へ向けてひら き、また、そのまま身をめぐらして、床上しょうじょう 一段高い所に居る富樫泰家の座へも、きっぱりと見せた。
「・・・・・・・」
凝視する泰家の眼が、やがて、うなずくかのように見えた。
すると、弁慶は、さらさらと、かん をまききを収めて、頂礼ちょうらい した後、仲教の手へ、すばやく、それを返してしまった。
問答坊は、満足したとも見えなかった。だが、言い懸りのつけようもなく。
「勧進の文は、諸道一様なりとの由。そのためか、いつわ りの印可を持ち歩く悪僧も、あまあるやに聞き及ぶ。客僧がたを、疑うではないが、なお念のため、問い申したい。── そも、かほど重き、造寺造仏の勅をうけたる勧進大上人の重源とは、いかなる智識か」
長谷雄はせお のお末裔すえ におわし、十九にして大峰へはいり、入峰にゅうぶ 五たびの修行をつみ、また、遠く海を渡って、入宋につそう すること三度、世のつねの、碩学がくせき とは異なり、ぎょう をもって、即仏そくぶつ現身うつしみ に見せしめ給う行コぎょうとくひじり でおざる」
「入宋三度の けん は」
「五台山を巡遊し、 育王いくおう 山に学び、また浄土五祖像を将来あるなど、世の聞こえ、隠れもおざらぬ」
「では、大仏造立ぞうりゅう願文がんぶん の趣旨は」
「聖武のみかどしょう をもって、心といたす。詔にいう。 ── 天下ノ人ヲシテ、一文ノぜに 、一合のノ米ヲ論ゼズ、力ノ多少ニ従ヒテ、加進ヲ得セシメ、各々おのおの ニ和福ノ楽シミヲわか タン ── と」
「工に従う人びとは」
「大勧進の下に、惣大工には、宋人のちん けい 、陳仏寿の兄弟を始め、同朋五十余人、宋人の鋳物いもの 七十二人。養和元年に、ふいご はじ めをなし、その年、まず螺髪らはつ のおん首を はじ めたり」
「奉加のだい 檀家だんか はたれたれか」
「上は、帝王を始め、連枝の宮々、諸公卿は申すまでもなし、鎌倉どの、秀衡公なども、およそもるるはなけれど、聖武のおんみことのり にも、一枝いつし ノ草、一把いちは ノ稲トテ、造仏ヲ助ケムトスル貧者ノ奉加ハ、コレヲ、オロソカニスルなか レ ── と見え申す。されば、世の隅々まで、あまねく、発願の聖旨を知らしめ、辺土の民にも、ひろくだい しゃ ぶつ結縁けちえん を得さしめて、万民祈祷きとう の泰平の本尊を、この招来しょうらい あらしめんこそ、貧道ら勧進衆の務めとこそは存ずるにて候う」
弁慶は、数珠を押しもみながら、泰家を、拝して。
「── 帰命きみょう 頂礼ちょうらい 。ここはいばらさく に、じょう 玻璃はり の鏡をかかげて、追捕ついぶ の凶徒をおあらた めの関。さながら閻王えんおう の門に似たりといえど、それも、諸民安堵あんど のためのほかではおざるまい。あわれ、だい しゃ ぶつ造立ぞうりゅう こそは、大恩だいおん 教主きょうしゅ が、この弘誓ぐぜい ありたる四海泰平の象徴しるし にほかならぬものにて候う。・・・・何とぞ、おん関守せきもり にも、今日の結縁けちえん を、授受じゅじゅ あって、われら貧道の浄業じょうぎょう をあわれみ、四海兄弟のお心のもとに、一紙半銭の奉加なりと、喜捨きしゃ あらせられい。つつしんで、願い奉る」
滔々とうとう と述べ終わった後、すぐつづけて、弁慶は低声に、経文を みはじめた。承意や仲教やそのほかもみな、かれにならって、唱和し出したので、白洲の内は、流れる水音のように、静かな風誦ふうしょう の声に満ちた。
「・・・・・・」
さっきから、左衛門尉泰家はおりおり、眼を閉じて、弁慶の答えに、聞きとれているふうだった。
山伏どもの列座の末の方に居る義経の姿を、それとなき眼で、ながめてもいた。
おたがいは武士だ、かなしい武門のかせごう の、なんたるかは、知っている。
泰家とて、木曾軍にくみ し、 のあたりに、義仲の転落も見、さまざま、武人の末路や悲歌は、身にも覚えのある者だった。
いつ、今日の義経の境遇が、明日の自分にも、ないとはいえない。
しかし、もし自分がそうなった時、ここに見える、義経の郎従の様な者が、自分にあるか否かを考えると、泰家は、うらさびしさに、たえなかった。ひそかに、義経への羨望せんぼう さえ、覚えられて来るのであった。
それとまた、泰家には、この春、鎌倉の安達清経の家でゆくりなく見かけた静の姿をも、この日、思い出さずにいられなかった。 ── その夜の、静の清節せいせつ も見ていたし、鶴ケ岡の舞いも、陪観ばいかん していたのである。
あれこれ、思い合わせると、自分も、何かの宿縁に、つながっている一人と思わずにいられない。泰家は、さっきから、涙を外に見せまいとし、そのため、いっそう容儀を硬めていたのであった。
そして、ひそかには、問答坊に対する弁慶の答えが、見事とも、 めてやりたいほどに思われていたのである。ほっと、、自分までが、救われた気がしたのだった。
「いや、いちいち明らかな返答、神妙に承った。げに殊勝しゅしょう な人びとであったものを」
泰家は、そういった後、関所抱えの二人を見やって、
「問答役、大儀であったぞ。が今は、そら 山伏やまぶし たらんなどの疑いは解けた。なんじらも、退さし がってよかろう」
と、白洲からしりぞけた。
次に弁慶以下一同へ向かって、
「これまでは、関守の役目、卒爾そつじ はゆるされよ。が、疑いの晴れたうえは、泰家わたくし として、寸志を勧進の内へ捧げ奉らん」
料紙すずり を寄せて、加賀絹十匹、白袴しらばかま 一腰、鏡一面と、目録に書いて、家臣の手から弁慶へ授けた。弁慶は押しいただ いて、
疑滞ぎたい をお除き給わるのみか、即座の御奉加、なんとも、ありがたき倖せにぞんじまする。やよ同朋どうぼう たち、つつしんで御礼を申し上げよ」
と、後ろの面々へ披露した。
さらに、泰家の家臣から、
「山伏一同へ、酒飯しゅはん を差し上げよとの仰せでおざる。関屋せきや の内庭へ、お通りあれ」
ともしょう ぜられたが、弁慶は、厚く好意だけを謝して、
「われら山伏は、身にふさわしい行飯ぎょうはん と申す旅糧たびがて を、おのおの朝の宿立ちに所持して出まする。かつは、陽も高きまに、先を急ぎとうおざれば」
と、やおら、人びとをうなが して、白洲を出で、開かれた関門せきもん の一歩を、無量な感で、ほっと、通った。

『新・平家物語(十六)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ