〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/12/13 (月) 『新・平家物語 (十五)』 P−446 〜 P−449

季節ははな のさかりである。路地やまがき に、ほの白いのはそれであろう。六条を出たおしのびの御車も、まだ都のはず れを離れてはいなかった。空はまだ明けず、町の音もせず、ほととぎすの ける影が、雲と雲の切れ目にふと見えたりした。
「やれ待て、ここは一条らしいが、小川こがわ の辺りか、戻り橋か」
み車の物見へお顔を寄せて、内から供奉ぐぶ の者へ、後白河のお声がしていた。
車脇くるまわき北面ほくめん (滝口の武者) が、牛飼の足を止める。そして、公卿の一人は、ながえ のそばへ寄って行った。 ── 上意とみえる。み車を中心に、供の輿こし や騎馬もみな、戻り橋の橋だもとへかたまってゆき、そこで人待ち顔に、しばし休み合っていた。
まもなく、石川の判官代長実ながざね が、馬をとばして、追いついて来た。そしてかれが、御幸ごこう の途中から、御所へ引っ返して持ってきた法王のお忘れ物を、
「お待たせ仕りました。おさしずの御品は、これでございましょうか」
と、み車の内へ捧げた。
後白河は、その小さい香筥こうばこ を手にされると 「・・・・おお、これぞ」 と、今朝お出ましの真際まぎわ につい持ち忘れた物を見て、御満足のようだった。のみならず、
ぞ、歌でも み出ぬか」
と、興じられた。
お忘れ物が、ここで手に戻った、そのことを、おもしろしと、思われたものか。
でなければ、源氏物語の宇治の巻に、この一条戻り橋のことを “── 行くは帰るの橋” とあるから、それと今日の御幸とを、結び合わせての、御興ごきょう じか。
だが公卿たちは、あれこれ、思い迷うだけで、聞こえ上げるほどな歌も出来ない様子だった。それに、この戻り橋は、古来から辻占橋つじうらばし という名もあって、さまざまな人が、さまざまな場合に、辻占つじうら を取りに来る習慣ならい がある。 ── で、もし不吉ふきつ歌占うたうら にでもなっては、という危惧きぐ も、皆にはあった。
そのことは、後白河も、思い出されていた。
治承四年十一月十二日のとらこく (午前四時) は、お忘れできない日であろう。
時の中宮ちゅうぐう (建礼門院)御産ごさん が、ことのほか御難産と聞こえ、中宮の御母二位どの (清盛婦人) は、戻り橋の橋詰に、車を立てて、辻占を問われたという。
この橋詰には、常時、小屋を掛けている陰陽師でもいたのだろうか。その時の占いには、十二人の童子が手を ちながら橋を馳け渡って来 ──
  たふなに たふ  国王の榻
  八重の汐路しほじ は 波寄せの床
と、声を一つに、唱歌して去ったとか。
当時、安徳天皇の御出産には、そんなうわさもあったうえ、やがて寿永の壇ノ浦では、御入水になったので、時人は皆、奇異な感にうたれたということである。
「・・・・おう、空は白みそめて来た。人も通る。はや、先へ行け。車を れい」
思い出は、後白河のお胸に、ふと辛いものに変わっていたらしい。
供奉ぐぶ はゆるぎ出した。
といっても、お微行しのび である。公卿、殿上、北面、すべてでわずか十八名ほど。
大原への道は、ふた筋あり、叡山えいざん の西のすそ、高野川に沿って行くのが本道だが、わざと、、人の行くも稀な間道かんどうへ、列は向かっていた。
松ケ崎の西を、市原野へかけて、み車は、のべつ揺れに揺られて行く。なにしろ、ひどい悪路なのだ。
この悪路や山坂の途中も計って、未明に御門を出られたらしいが、六条から大原までは、約五里ぢかい。どう急がれても、日帰りは、御困難になるのではないか。
けだし、それだけでも、今日の御幸は、生やさしい思し召し立ちではない。おん供の顔ぶれでも、なんとなくそれはわかる。
── 左大将後コ大寺実定をはじめ、花山かざん いん 兼雅かねまさ按察あぜ 使ちの 泰通やすみち冷泉隆房れいぜいたかふさ、侍従成通、かつら 雅頼など、大納言級ばかり六名も従うていたし、堀河中納言、花園公氏はなぞのきんうじ、梅小路三位、柳原左馬頭、吉田右大弁、そのほか北面の下臈げろう 長実、時影にいたるまで、粒よりである。みな、信寵しんちょう の厚い者ばかりであった。

『新・平家物語(十五)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ
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