〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/22 (月) 布 引 三 十 六 歌 碑

明治5年に花園社が布引一帯を布引遊園地として開発した際に、平安時代から江戸時代までの歌仙が詠んだ布引滝に因む和歌を歌碑にして、布引滝の入り口から布引展望台までの回遊路に建て並べたのが今も残る 「布引三十六歌碑」 である。最初の歌碑は、歌人は36人・和歌は41首・歌碑は38基から成っていて、歌碑には番号が付され (歌碑には刻まれてはいないが) 、回遊路の入り口から展望台までその番号順に配置されていた。
その後、遊園地の経営が成り立たなくなり花園社は解散し、布引一帯の所有者が転々とし、布引貯水池の出現で豊富だった滝水が激減して滝見物がすたれる間に、歌碑の多くは土に埋没したり散逸したりしてしまった。
大正あるいは昭和初期に発行された神戸名勝案内書の布引滝の項には、33番歌碑だけの紹介であったり、歌碑についての記述がまったくなかったりするので、この頃には、 「布引三十六歌碑」 は既にほぼ忘れられた存在になっていたようだ。神戸市の神戸区観光協会が昭和10年に発行した 「神戸観光要覧」 にも布引滝に因む和歌を掲載しながら、歌碑についての記事がないので、執筆時にはその存在がまだ確認出来ていなかったのだろう。
昭和9年に神戸市が布引滝周辺を市民へ開放することを決め、そのための再開発に当たり、郷土史家大田敞三 (錦里) 氏の歌碑復興の提唱で、原初 (明治5年) の歌碑が8基発見され、市民からの寄贈による7基と合わせ、昭和12年に15基の歌碑が復興した。発見された明治5年の歌碑は、1・22・22・23別・28・33・33別・34番歌碑で、刻まれた書体に明治の面影を留めている。但し、34番歌碑は文字が風化していたので刻み直した旨の刻銘が歌碑の裏面にある。市民の寄贈は、7・11・12・21・25・26・27番歌碑である。
平成5年に神戸市 (中央区) が10基を復旧させ、25基が揃ったが、平成7年の阪神淡路大震災で昭和12年市民寄贈の26番歌碑が消失し、現在は布引滝回遊路に24基の歌碑が立ち並んでいる。
平成5年の復旧歌は、3・4・5・6・8・9・10・13・20・23番歌碑である。
平成19年に神戸市 (中央区) が、残る14基を生田川公園からHATゆめ公園に新設し、これで135年ぶりに全ての歌碑が復興した。こ14基の歌碑は、14・15・16・17・18・19・24・26・29・30・31・32・35・36 番歌碑である。しかし、和歌は、総数40首で、最初からすると1首外れている。それは17番歌碑で、元は和歌 「津の国の 難波の乙女の いとまなみ 来やたち縫はぬ 布引の滝」 との2首併記だった。
各歌碑に添えられている陶板の解説は、元神戸大学名誉教授野中春水氏のものである。
歌碑の和歌をよく鑑賞すると、今の姿からは想像できない滝の雄大な躍動感や、当時の人たちが滝を崇める神秘性も読み取れる。また、1番歌碑は往時の賑わいを、6・32番は京や江戸での名声ぶりを、8番は月明かりの幻想を、12番は厳冬の静寂を、7番は身分柄の自負を、16・23・34 番は境遇の悲哀を感じさせ、24番と22番、30番と28番の対比も面白い。

明治五年から蘇った和歌の散策道 布引三十六歌碑の案内 著:松原 壽一 ヨリ