布引滝の周辺の開発と布引三十六歌碑の成り立ちには、明治維新の王政復古への政情と明治元年の神戸開港にともない流入する西洋文化との摩擦といった時代背景にある。 ことの始まりは、明治4年にドイツ領事が布引滝付近の景観に目を着け高殿の建設許可を兵庫県へ要請したことにある。それを知った貿易関係業者の団体は、外国人に布引の地を占有されることを危惧し、先鞭をつけるために、砂子山に伊勢神宮と神武天皇陵の遥拝所を設ける企画を県に出願した。 兵庫県は、これ幸いと明治政府へ上申したが、何の回答も得られなかったので、2ヵ月後に
「某国領事は密かに高殿の工事を始めている。キリスト教が広まっており、その布教を援助する日本人を逮捕した」 旨を書き加えて上申したところ、折り返し許可を得ている。 当時は、神祇官を太政官の上に置き、祭政一致令のもとに廃仏毀釈だけでなく神道以外の宗教を抑制するための明治新政府の一策であったことがわかる。 許可を得た同団体は花園社を組織し、莫大な資金を投じて、明治5年5月に砂子山から布引滝一帯を布引遊園地として完成させた。 その結果、砂子山の遥拝所のほかも、布引滝を巡り展望台にいたる回遊路や滝見物の朱塗橋を、滝の回遊路脇には点々と
「布引三十六歌碑」 と名付けた布引滝に因む歌碑を、麓一帯には花園を、要所には飲食店、茶店、土産物店などを、沿道には提灯を備えた大遊園地となった。 一時は、家族連れが人力車でやって来る贅沢の楽しみだったり、団扇片手の夕涼みなどで大盛況だったが、いつしか暴利を貪る飲食店などが増え、
「神戸の布引に行っては、饅頭一つ食うにも値段を聞いてから口にせよ」 との悪評が広まり、次第に客足も遠のき花園社は経営困難に陥り数年で解散に至った。その後、持ち主が転々とし、布引貯水池の建造によって水量が激減した布引滝は、魅力がそがれ忘れられていった。 |