〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/24 (水) 『新・平家物語 (十四)』 P−205 〜 P−209

知盛は、みずから自船を焼き捨て、同船の一族と郎党を、小舟小舟に乗せ かち、自身は、みかどの船御所へ、 ぎ急いで来たのである。
ともに漂い出た無数の小舟は、散り散りに、思い思いに、途中では減っていた。どこまでもと、続いて来る舟は少ない。
知盛は、知っても怒りはしなかった。わざと、逃げよと言わぬばかりに見える。
「何処へなと、漂い着きて、生きよ」 と、願っているのかも知れない。
かつまた、彼の面には、なんら怨念おんねん らしいくま りも悔いもなかった。 ── 矢傷の血、ざんばらな髪、草摺くさずり の破れなど、鬼神の扮装ふんそう を除いてただ人間の真骨髄だけを見るならば、その静かな は、日ごろのとおりであったといっても過言でない。 「── 勝敗は見えた。戦いはよく尽くした。悔いはない」 と、すずやかな菩提の波上に、身はまかせているらしい彼なのであった。
「や、黄門こうもんきみ にてはおわさぬか」
彼の姿を見ると、衛士の大将伊賀平内左衛門は、馳け寄って来、
四方よも のお味方、さんざんには見えまするが、なお、みかどや女院にも、おつつがはござりませぬ。お安堵あんど なされませ」
と、問われぬうちに、息せいて言った。
「・・・・・・・」 ただうなずいて ── 「さっそくこれへ、お側の典侍たちを、呼び集められよ。知盛申すことのあれば」
「心得まいた」
平内左衛門は、船底の口へ向かって、知盛が来たよしを告げ、典侍の幾人かを、上へ呼んだ。
さなきだに暗い船底の御所は、もう黒白あやめ もわからぬほどだった。 ── 知盛が来たと聞くと、やみは、人間の官能だけを詰めている真空に見えた。すすり泣きすら今はしていない。
上では、典侍らに言いわたしている知盛の声が、静かにしていた。
「── 残る味方は、なおあのように、諸所において、最期の最期まで戦うておることゆえ、敵が、ここ目がけて、 せて来るまでには、まだしばらくの間があろう」
覚悟はしていても、知盛からいわれると、彼の前にある女房たちは、声をあげて悲泣した。
いや、彼女たちばかりでなく、すぐ側には、御簾一重の屋形があった。その屋形の内には、二位ノ尼や修理太夫経盛や、一門の僧たちが、ひそと、影をつらねて居並んでい、同じ声を、じっと、聞いていたのである。
知盛は、語を続けて、
「── おそ れ多くはあれど、みかどや女院へも、今さらお覚悟などのことは、申しあぐるまでもあるまじ。・・・・ただ、やかてここも、源氏の荒武者どもの踏み入るところとなれば、東国のやから に、 最期さいご の有様なんども、ぜひなく見とどけられましょう。されば、世のはしたなき口の語り草にかからぬよう、清げに、おん身づくろい持たせ給うはいうまでもなし、おん住居の跡にも、ちり だに見苦しき物はとどめ給うな。 ── 兵どもにも申し渡せば、今より船上を掃きぬぐうてきよ め申さん。 ── そのよし、女院へも、おつたえ申し上げられよ」
と、さと した。
兵はただちに、船上の “死の清掃” にかかった。
知盛はまた、尼の前に来て別れを告げた。母と甘え、子として、いつくし まれて来た三十余年のきずな は今、知盛の胸をずたずたにしているに違いない。
だが、知盛は尼へ、静に、死の支度をすすめていた。尼も乱れはしなかった。いや、この子がいてこうしてくれるので、今は死にやすいかのように、うなずいて見せた。 ── 世に疲れたこの母が、いちばん望んでいるのは、少しも早く、良人おっと のそばへ行きたいという願いのほかでないことを ── 知盛は く察していた。いや尼自身から聞いてもいた。
「おん供には、一門のたれかれも参りましょうが、知盛もまた、お後からすぐ、死での道を御一緒にいたしまする」
知盛が言うと、それまで黙然としていた叔父の経盛が、
「否々、おん供は、賑わし過ぎるほど、大勢おる。 ── なお行く手の冥府よみのふ には、故清盛公、重盛のきみ を始め、孫の維盛これもり きょう やら、門脇かどわき どのがお子の通盛みちもり業盛なりもり 。さてはまた、この孤父が子の経正、経俊、敦盛あつもり なんどが、みな待っていることでもあろうよ。・・・・されば、知盛どのは、後の始末して、ゆるりと、参られたがよいぞ」
と、いつにない、明るい声音こわね で言った。
そして、その経盛は、そばにいた義弟の阿闍利あじゃり 祐円ゆうえん に、 「得度とくど してくれよ、お剃刀かみそり は、真似まね ばかりでよい」 と頼み、また僧衣を乞うて、よろいの上に着、いつでもと、支度をすました。
それらは、一瞬に思われたが、いつか陽は、真紅の一環の端を、ちかと見せつつ夕雲に沈みかけてい、海づらも船上のあいろも、紫ばんだ暮気にくるまれようとしていた。
「みかどは、尼が抱きまいらせて」
やおら、尼は、屋形の外へ出てきた。経盛も、盛国も、そして侍座の僧侶そうりょ までことごとく、入水の覚悟を見せて、ふなべり へ立ち並んだ。
── 人びとは無言になり、今し荘厳そうごん の美を極めた落日の燃えくるめきを西方さいほう 浄土じょうど と見て、たれいい合わせるともなく、 を合わせた。
そして、女院とみかどを、お待ちしていた。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ