〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/23 (火) 『新・平家物語 (十四)』 P−199 〜 P−202

一方、義経の去ったあと、その乗船をあずけられた伊勢三郎義盛、後藤兵衛実基らも、むなしくはいなかった。
義経の身を案じ、義経たちの小舟の影に、後から続いていたのである。
と、その途中。
かじ の自由を失っているらしい平家方の一巨船が漂っているのを見かけた。なんで見過ごそう。ふなべり を寄せ並べ、ただちにそれへ斬り込んで行った。
思いがけぬ獲物であった。平家の総領、内大臣おおい殿との の船だったのである。それだけに、精兵もいた。 ── とも用意せず、向こう見ずに躍りこんだ初手しょて の東国武者は、彼らの反撃に会って、たちまちかばね をそこらに乱してしまった。 「ゆゆしき敵ぞ」 と見、伊勢三郎は、自船を空にして、二陣の先頭に立ち、後藤兵衛もまた、身を挺して、血風の下へ、馳けこんだ。
さきの 内大臣、宗盛公の乳人めのと 、飛騨四郎兵衛景経はここぞ。景経が手並みを見よや」
阿修羅あしゅら となって、前後に、屍を捨てている大武者がある。
「── れ討たば」 と目がけて、
「伊勢三郎義盛っ」
名のるやいな、その大長柄が、風をまいて、いど みかかった。
ところへ、また源氏の一艘が、舷側げんそく へぶつかって来た。堀弥太郎親経の手勢だった。あふれ込む兵を見ながら、弥太郎は自船のとも に立っていたが、急に弓をしぼって一矢を放った。
矢は飛騨景経の内甲うちかぶと に立った。
どうと、四郎兵衛景経が倒れたところへ、堀の郎党が、まっ先に馳けよって行き、からめ上げているのが見えた。伊勢三郎は、次の敵へ、馳け向かって行く。
平家の内蔵頭くらのかみ 信基のぶもと兵部ひょうぶの 少輔しょうゆう 尹明まさあきら なども、生け捕られ、縄目なわめ となって、乱離らんり矢屑やくず や盾と一所に、ころ ばされていた。
まだ二十歳はたち に過ぎない公達、左馬頭行盛は、斬り死にした。
その様を、 のあたりにして、同じ船にいた門脇かどわき 中納言ちゅうなごん 教盛のりもり は、思わず眼をおおっていた。
「── わが子教経も、今は、こうして果てたに違いない」 と思う。
彼は、時に五十七歳、余りに兄清盛の偉にあまえ、うかと人生の大半を公卿なみに過ごして来、勇猛も才略もない自分をよく知っている。 ── そう知りながら、つい子の教経の勇と、その主戦説に引かれ、ついにここまで来てしまった身の凡庸ぼんよう さを、ひとりひそかに慙愧ざんき している姿であった。
その自分の身へ、彼は既に、手ずからのいかり のついた大綱を巻きからめ、ふなべり から海をのぞいていた。
まっ青な波の底に、瞬間、たれかの顔が見えた気がした。 ── 兄清盛か、父忠盛の面影か、たれかが、そこまで来て、自分を波の底からさし招いていると思った。
教盛は、この世のたれへともない衆生へ向かって 「おさらば」 と、胸で告げ、仏の名号をとなえ、ざぶんと、海底へ身を消した。
ただここに、不覚な戸惑いを見せたのは、宗盛であった。
気も公卿なみだし、身も え太っている彼なので、もとより武勇の覚えはない。一子右衛 え 門督もんのかみ とともに、乱戦のひびきを耳に、船屋形の蔭にわなないていた。しかし、左右の郎党も、出て行ってはたお れ、出ては帰って来ず、飛騨景経た行盛も討たれたと聞いて 「今は」 と、彼も覚悟したとみえる。
ふなべり へ走り出、わが子と一つに、海へ身を投げようとした。
けれどなお、彼は、そこでも、ためらいを見せ、うろうろしていた。すると、何かわめ きざま、走り寄って来た一武者が、いきなり宗盛を海へ突き落とした。 「── あっ」 と父の影が、真っ逆さまに海へ向かってのまれて行くのを見、
「父君っ」
と、子の右衛門督も、われから後を追って飛び込んだ。
つづいて、後からもまた、幾つもの水煙みずけむりが立った。宗盛を突き落としたのは、宗盛の部下だったのである。 「未練なお主かな」 と、歯がゆく思い、主を誘って、自身も入水したものらしい。
ところが、下にいた源氏の小舟が、
「今のこそ、大将らしいぞ」
「それっ、かき探せ」
と、熊手くまで鈎棒かぎぼう を伸ばしあって、漕ぎ騒いだ、やがて、その一艘へ、宗盛の大きな体が引き揚げられていた。つづいてまた、はるかまで、流されかけていた右衛門督も、源氏の舟に、助け上げられ、幸か不幸か、父子ともに、生捕りの身となってしまった。

『新・平家物語(十四)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ