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2010/11/09 (火) ベートーヴェンの生涯 (十四)

「この時期に (1812年) 『第七』 と 『第八』 の交響曲が、テプリッツ滞在中に数ヶ月間に書かれた。
『第七』 は 「律動リズム の大饗宴」 であり、 『第八』 は軽快なユーモラスな気分の交響する作品である。この両作品にはおそらく最も自然な、 (彼自身のいったとおり) 「ボタンをはずしている」 aufgeknopft 飾り気無い素地が現れている。そこには夢中な陽気さと熱狂とがあり、気分の突如たる対照コントラスト があり、錯雑する、大規模な、電光のような思いつきと巨人的な爆発とがある。これらはゲーテとツェルターとに恐怖を感じさせたところの特徴である。
北ドイツでは 『第七』 は酔っ払いの作品だと評された。 ── 確かに酔っ払いに相違ない、ただし自己の天才の実力に酔っているのである。
彼は自分人について言った ── 「俺は人類のために精妙な葡萄酒を醸す酒神バッカス だ。精神の神々しい酔い心地を人々に与える者は俺だ。」
ベートーヴェンが第七交響曲の終曲フィナーレ でディオニゾスの祝典を描写しようとしたと書いているヴァーグナーの説が正しいかどうかは私は知らない。私自身はむしろ、この激しいオランダ的祝祭ケルメスの中に、彼のフランドル的血統の印を認める。── 訓練と服従との国において、誇らしげにあらゆる額縁からはみ出してしまうような彼の表現と動作との大胆さに中に私が彼のこの血統の特徴を認めるのと同様に。
しかも、この 『第七交響曲』 の中には他の作品に類例が無いほどに率直で自由な力が現れているのである。それは超人的精力の無方途な濫費 ── 濫費の楽しみである。横溢し氾濫する大河の楽しみである。
『第八交響曲』 においては、力はそれほど雄大ではない。しかし、またそこにはこの人間のいっそう奇妙な特徴が示される、すなわちそこでは悲劇がふざけと溶け合い、勇士ヘラクレスのような力強さが幼な児の無邪気な遊戯と軽やかな気まぐれとに溶け合っているのである。
1814年はベートーヴェンの名声が高潮に達した年であった。ヴィーン会議において、彼は全ヨーロッパの一光栄として遇せられ、祝祭には積極的に参与して、王侯たちは彼に頌敬を贈り、彼自身は誇りかに (それをシントラーに向かって自慢したとおりに) 人々がもてなすがままになっていた。
彼は独立戦争に心を奪われていた。1813年には一交響曲 『ウェリントンの戦勝』 (作品第九十一) を書き、1814年の初めには、 『ゲルマニアの復活』 の戦闘的な合唱を書いた。1814年十一月二十九日には王侯たちを聴衆として、愛国的な声歌曲 『栄誉に充ちたる瞬間』 を指揮し、1815年にはパリ占領を祝して合唱曲 『一切は成し遂げられたり!』 を作曲した。
これらの第二義的な臨時の作品は、他の全作品にも増して彼の名声を高らしめたフランス人ルトロンヌの素描のスケッチによってブラジウス・ヘーフェルの作った版画と、1812年にフランツ・クラインが取った猛々しいライフ・マスクとは、ヴィーン会議の頃のベートーヴェンの現身の姿を良く伝えている。引き緊った両顎と、憤り及び悲哀の皺とを持つところのこの獅子のような相貌を支配している特徴は、まさに意力である。 ── ナポレオン的意力である。イエナの戦の後にナポレオンについて次のように言った人間の性格を確かにわれわれはこの顔の中に感じることが出来る ── 「私が音楽について知っているほどに戦略について知らないとは何と残念なことか! ── ナポレオンをやっつけてやるはずなのに!」
とはいえ、ベートーヴェンの王国はこの世のものではなかった。 「私の国は大気の中にある」 (Mein Reich ist in der Luft) と彼はフランツ・フォン・ブルンスヴィックに宛てて書いた。

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ