〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/11/08 (月) 『新・平家物語 (十二)』 P−68 〜 P−73

義経は、片隅の衣桁いこう を見上げた。脱いだ小袖こそで狩衣かりぎぬ が掛けてある。彼は起きて、その袂の底をさぐった。そして宵に、那須大八朗から受け取った小さいむすぶみ を見つけ、また。寝床にはいった。
文の主はられか。 ── 彼には分かっていたのである。大八郎の言葉のはし からも、あの時すぐ 「── しずか ?」 と、心はときめいていたのだった。
が、彼には、それをあからさまに、家臣たちへ見せびらかすほどな勇気はない。あわてて袂に隠し 「・・・後で」 と、たの しんでいたのである。その密かな愉しさは、鎌倉殿から受けたつら い仕打ちや不満も忘れ得るほどだった。忘れ切れないまでも、一面の苛烈かれつ に耐える気持ちと、一面の人に知れぬ心のぬくもりと、二つのものに、多感をいとど多感にひた して、今宵の酒は甘く、またにが く、思わず量も過ごしたのである。
「・・・・・・・」
彼は、仰向けに寝つつ、その文を解きかけた。
文字の匂いに、彼はまず、うっとりした。
すぐ、十年前の幻想がよみがえ って来る。
── あれは、雪の日だった。
鞍馬脱走後、名を “龍胆りんどう ” と変えてかく まわれていた家の近くに、つづみ つく りのいそ大掾だいじょう の家もあった。
仲良しの、静は、大掾の愛娘まなむすめ だった。
静は九ツか十、自分は十六の春。
その春の雪に遊び暮れて、二人は、遠くのまち 端れから、車に乗せられて、連れ戻されたことがある。
ふたりは、いつのまにか、車の中で、一つのまり みたいに抱き合ったまま、眠ってしまった。 ── 苧環おだまき の巡るような車の中で。
「 ── 静は覚えているだろうか、いや、忘れてはいないだろう。それから、ずっと年を経て、もう一ぺん、あぶばい所で、ちらと合ったことがある」
その時の記憶は、おたがいに、もっと成長していたから、前より、はっきり残っている。
今から五年ほど前だ。
所は、平大納言時忠の邸。
時忠の手に捕らわれて、自分は、死を待つばかりだった。が、叡山の堂衆や、一味の者の運動で、解きゆる されることになった。
腹の大きな時忠は、それが平家のためであるとして、一門の過激な公達きんだち を説き伏せ、しかも、宴を張って、自分の放免を祝ってくれた。 ── その夜のことである。
宴に招かれた白拍子のうちに、年十五ほどの可憐かれん乙女おとめ がいた。彼女が立って舞った時、それが静だと知って、びっくりした。
静のひとみも、自分を見、言葉も掛けられない場合だけに、なんともいいようのない驚きと想いだけを、眼の内に語っていた。眼に語りつつ、舞い終えた。
あとは、酒盛の崩れとなって、あら 公達きんだちいど みにからまれ、つい、静とも、言葉を交わす機会を持たなかった。時忠の息女、夕花の機智に救われて、からくも、裏の庭門から、虎口ここう を脱したのが、やっとであった。
「・・・・なつかしさよ」
と、義経は文の匂いを、頬へ当てた。
はからずも、先ごろの即位の日に、その静を、路傍の群衆の中に見た。おそらく、彼女も、自分の姿を見つけたに違いあるまい。
── 振り分け髪の幼い日を思い出して、久しぶりに、お会いしたいといって来たのか。
── あるいは、思いのたけを、水茎みずぐさ の筆のあとに、めんめんと、書いているのか。
義経は、恋占こいうらひら くように、指の先がふるえた。
が、中には、一章の歌だけしか書いていなかった。
会いたいとも、恋しいとも、書いてはいない。静という名すらなかった。

しら糸や しず苧環おだまき
いとし 白糸
色もやと 云ふなれ人は
女郎花おみなへし  木賊とくさ  蘇芳すはう
しや 紅花べに とても
染めもせば 染む身ならねど
龍胆りんだう の濃いむらさき
秋の野の 露にかも似む
忘れはしない。名はなくても。
この歌は、平大納言の邸で、彼女を見たとき、彼女が、舞いつつ歌ったものと同じではないか。
そうだ。この歌だけは、他の白拍子も歌っていないし、その後、よそでは聞いたこともない。
「おそらく、静の自作?」
と、義経は思った。
「・・・・が、歌のこころ は、何を歌おうとしているのか、いや、静の心は?」
おつか、夜は白みかけている。
義経は、それも忘れて、口誦くちずさ みを、繰り返した。
静が、自分を白糸の白さになぞらえ、色さまざまな浮かれ男たちのうるささをいと って、身を染めるならば、龍胆りんどう の紫に染まりたい。 ── けれど、しず苧環おだまき にひとしい身の上 ── その願いがかなわぬものなら、せめて、秋の野の露となって、龍胆りんどう のそばに似ていたい ──。
歌の意味はそう解かれる。
無性むしょう に、彼の想いも、恋の火にかきたてられた。静は自分を忘れていなかった。白糸のような恋を守り通しているといっている。
「・・・・そうだとしたら?」
義経は、彼女と会う方法を考えた。家臣のたれかに打ち明けてとも、思案してもタ。しかし、戦場の猛者もさ はいくらでもいるが、こんなときにすい のききそうな者はここの館には見当たらない。
『新・平家物語(十二)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ