義経は、片隅の衣桁
を見上げた。脱いだ小袖
や狩衣
が掛けてある。彼は起きて、その袂の底をさぐった。そして宵に、那須大八朗から受け取った小さい結
び文
を見つけ、また。寝床にはいった。 文の主はられか。
── 彼には分かっていたのである。大八郎の言葉の端
からも、あの時すぐ 「── 静
?」 と、心はときめいていたのだった。 が、彼には、それをあからさまに、家臣たちへ見せびらかすほどな勇気はない。あわてて袂に隠し
「・・・後で」 と、愉
しんでいたのである。その密かな愉しさは、鎌倉殿から受けた辛
い仕打ちや不満も忘れ得るほどだった。忘れ切れないまでも、一面の苛烈
に耐える気持ちと、一面の人に知れぬ心のぬくもりと、二つのものに、多感をいとど多感に浸
して、今宵の酒は甘く、また苦
く、思わず量も過ごしたのである。 「・・・・・・・」 彼は、仰向けに寝つつ、その文を解きかけた。 文字の匂いに、彼はまず、うっとりした。 すぐ、十年前の幻想が甦
って来る。 ──
あれは、雪の日だった。 鞍馬脱走後、名を “龍胆
” と変えて匿
まわれていた家の近くに、鼓
作
りの磯
ノ大掾
の家もあった。 仲良しの、静は、大掾の愛娘
だった。 静は九ツか十、自分は十六の春。 その春の雪に遊び暮れて、二人は、遠くの町
端れから、車に乗せられて、連れ戻されたことがある。 ふたりは、いつのまにか、車の中で、一つの鞠
みたいに抱き合ったまま、眠ってしまった。
── 苧環
の巡るような車の中で。 「 ── 静は覚えているだろうか、いや、忘れてはいないだろう。それから、ずっと年を経て、もう一ぺん、あぶばい所で、ちらと合ったことがある」 その時の記憶は、おたがいに、もっと成長していたから、前より、はっきり残っている。 今から五年ほど前だ。 所は、平大納言時忠の邸。 時忠の手に捕らわれて、自分は、死を待つばかりだった。が、叡山の堂衆や、一味の者の運動で、解き免
されることになった。 腹の大きな時忠は、それが平家のためであるとして、一門の過激な公達
を説き伏せ、しかも、宴を張って、自分の放免を祝ってくれた。
── その夜のことである。 宴に招かれた白拍子のうちに、年十五ほどの可憐
な乙女
がいた。彼女が立って舞った時、それが静だと知って、びっくりした。 静のひとみも、自分を見、言葉も掛けられない場合だけに、なんともいいようのない驚きと想いだけを、眼の内に語っていた。眼に語りつつ、舞い終えた。 あとは、酒盛の崩れとなって、荒
公達
の挑
みにからまれ、つい、静とも、言葉を交わす機会を持たなかった。時忠の息女、夕花の機智に救われて、からくも、裏の庭門から、虎口
を脱したのが、やっとであった。 「・・・・なつかしさよ」 と、義経は文の匂いを、頬へ当てた。 はからずも、先ごろの即位の日に、その静を、路傍の群衆の中に見た。おそらく、彼女も、自分の姿を見つけたに違いあるまい。 ──
振り分け髪の幼い日を思い出して、久しぶりに、お会いしたいといって来たのか。 ── あるいは、思いのたけを、水茎
の筆のあとに、めんめんと、書いているのか。 義経は、恋占
を披
くように、指の先がふるえた。 が、中には、一章の歌だけしか書いていなかった。 会いたいとも、恋しいとも、書いてはいない。静という名すらなかった。 |