人はこれらの作の大多数を聴くときに、ベートーヴェンの行進的な旋律と戦闘的な旋律との強さと迫力とに打たれる。とりわけ
『第二交響曲』 のアレグロとフィナーレとの中に、さらにまた 『アレクサンダー皇帝に捧げたソナータ』 のはなはだ雄々しい第一楽章の中にそれが感じられる。この音楽の特性である或る種の戦士的性格は、この音楽の生まれ出た時期を思わせるものがある。 革新がヴィーンにまで到達していた。ベートーヴェンはそれの心をさらわれていた。
「親しい人々のあいだで」 と、士爵
フォン・ザイフリートが言っている、 「ベートーヴェンは政治的な出来事について話すのを好んだが、彼の意見はなかなか聡明で、明確な着眼点を持っていた。」彼の同感は全部的に、革新的な考えに味方していた。
「共和主義的な諸原理を彼は愛していた」 とシントラーは言っている。シントラーはベートーヴェンの晩年に彼を最も深く識っていた親友であった。 「彼は無限の自由と国家的独立との主張に加担していた。・・・・誰しもが国の政治に携わり得ることを望んでいた。彼はフランスのために普通選挙法を望み、ナポレオン・ボナパルトがそれを実施して人類の幸福の基礎を置くであろうと期待していた。プルタークの精神に養われたローマ的な革新主義者だった彼は、
「勝利の神」 最初の執政官 (ナポレオン) に基底を置かれた一つの英雄的な共和国を夢みていたのである。それ故に彼は彼の
『英雄交響曲 』 を
「ボナパルト」 という傍名のもとに (1804年) 、少しずつ打ち鍛えながら作っていた。── これはローマ帝政的な
「イリアード」 である。 彼はまた、1805年から1808年までの間に 『第五交響曲』 の終曲を作った。これは光栄を歌う叙事詩的、英雄的な楽章である。これらは音楽の中に初めて生まれた真に革新主義的な音楽である。大きな歴史的事件が、もろもろの偉大なそして孤独な人々の魂の中に惹き起こす印象の緊張と純粋とをありのままに示しつつ、時代の魂が、そこに生き生きと再現せられており、しかも内生活の力を感銘させる度合いは、現実的事件への関与によっても少しも弱められてはいない。 ベートーヴェンの風貌はこれらの作品においては戦闘的叙事詩の反映に彩られている。おそらく彼自身はそれと気づかずして現れているそんな反映は、同時期の様々の作品の中に看取せられる。
『コリオラン序曲』 (1807年) の中には嵐が吹き渡っており、作品十八の 『第四の弦重奏』 の第一楽章は 『コリオラン序曲』
と非常に似通っている。 作品五十七の 『情熱奏鳴曲
』 (1804年) についてはビスマルクがこういった。 ── 「これを私がたびたび聴けたら、私は常にはなはだ勇敢であるだろうが」
と。 『エグモント』 の音楽にも同様の特徴が看取せられるし、さらにまた 『ピアノ協奏曲』 のうち、作品七十三の 『変ホ長調の協奏曲
』 (1809年) の中では、軍勢の行進の響きが聞こえ、そこでは音楽技巧そのものが英雄的な性質を持っている。 ──
しかしそれに何の不思議があろう? ベートーヴェンが 『一英雄の死のための哀悼行進曲』 (奏鳴曲
、作品二十六) を作ったとき、ボナパルトよりもいっそう彼の英雄交響曲の理想に近い立派な英雄オッシュ将軍がイラン河畔の土地で没してその奥津城はコブレンツとボンとの間の丘の上からラインの土地を見下ろしているのだということを彼が全然知りはしなかったとしても、
── しかし彼自身ヴィーンにいて 「革新軍」 の勝利を二度までも眼のあたりに見たのであった。1805年十一月に 『フィデリオ』 の初演を聴きに来たのはフランスの士官たちであった。バスチーュの勝利者ユラン将軍はロブコヴィッチ家に泊まっていたが彼はベートーヴェンの友であり擁護者であり、
『エロイカ』 と 『第五交響曲』 とが彼に献呈せられた。 1809年の五月十日にはナポレがオンシェーンブルンに泊まる。ベートーヴェンは間もなくフランスの勝利者たちを憎むようになるが、しかし彼らの英雄詩的行為に対する熱情を彼は依然として感じつづけていた。この熱情をベートーヴェンほどに感じ得ない者は、彼の行為的な、そして堂々たる凱旋の調子を持つ音楽を、半分しか理解できないであろう。 |