鵯越から夢野さたりの岡の守りも、すべて、義経とその麾下の馬蹄
に、蹴 散らされていた。 それは、一陣の旋風が、地を掃
いて行ったように迅 かったし、また平軍にとっては、胴なかを両断されたような致命となった。 そしてここでもまた、平家方は、他のどこよりも惨たる敗北と、支離滅裂な八方崩れを、付近一帯に、描いたのであった。 経盛の次男、若狭守
経俊 は、友軍の将、越中前司が、すでに長田方面で討たれたと聞いて、 「はや、これまで」 と死を決したか、宇奈五ノ岡の守りを捨てて、敵の中へ斬ってはいり、敵の那波
太郎と戦って、討たれてしまった。所は、佐比
ノ入江 の附近だった。 彼の兄。──
あの弟想いな、皇后宮亮経正
は、どうしたろうか。 経正も、鵯越の陣にいた。 しかし、主将の能登
守 教経
の生死のほども分からなかった。 朝空の下ながら、地上はこの世でないような暗さに思われ、眼に映
るものは、血に染んだ草か、敵味方の屍
か、乱離 な武器のくずでしかない。 経正は、西へさして、ひとり馬を打たせながら、 「ああ・・・・」
と、思わずつぶやいた。 「こういう日が、いつか来ることを、想っていない自分ではなかった。・・・・かって、北陸出陣の途中、竹生島
へ渡り、琵琶 の一曲を、名残に弾いて、たまたま居合わせた医師の麻鳥にも聞かせたことがあったが、すでに、そのころから
──」 一代の琵琶の名手といわれた彼も、琵琶を抱く手に、心にもない薙刀
をかい込み、身には幾筋もの矢を負って、孤影
悄然 、一ノ谷の方へ落ちてゆく。 振り返れば、宇奈五ノ岡にも、味方の一兵さえ、はや見えない。 おそらく、そこの経俊は、もう、討死を遂げたことであろう。もともと、剛毅
な人間だ。どう果てようと、あの弟の方は身の始末を誤るようなことはあるまい。経正は、そう思う。 「が、心がかりは、敦盛
よ。・・・・敦盛は、いかにせしか」 そればかりを、今は一つの心がかりとしている経正だった。 三人兄弟のいちばん末で、気も弱く、そして、もとより戦場を踏むのも初めての敦盛は、一ノ谷の砦
にあって、この曉 の突然な修羅
を、どう戦って出たろうか。 ── ここからも、その一ノ谷は望まれる。 山ふところの砦も、西木戸の辺も、潮風に吹きあおられて、濛々
と、黒煙 を低くはわせている。 あの弟も、間違って武門に生まれた平家の子だ。 「自分は長男、ぜひもない宿命だが、なぜ、敦盛だけでも、早くに、出家させてやらなかったか」 そうも悔やまれるし、また、 「さりとて、出家の身となれば、部門の業
は遁 れうるが、同時に、恋も捨てねばならぬ。・・・・右大弁どのの姫ぎみとの恋、敦盛には、よも捨てきれまい。いずくに向くも、人間の火宅
。・・・・ああ、せめて敦盛に人目会うて、別れたいもの」 と、思った。 無意識のままに、妙法寺川を越え、板宿、塩屋ノ浜と、さまよいながら、彼はなお、弟の生死を確かめんものと、駒を西へ急がせていた。 そしてすでに、明石の東、大蔵谷まで来たときである。後ろの方から、 「逃ぐる人、待てっ」 と、呼ばわる者があった。 振り向いてみると、主従三騎の東国武者であった。経正は、にこと笑って、 「逃げるのではない。人には人の心ばえもあるぞ。など、東国の荒くれどもに、われらの心根が分かろうや」 と、言った。 すると、中の一騎が、 「やあ、ここは戦場、いちいち敵の心根など酌
んでいられようか。戦場をあとにして走る者を、東国では、逃ぐるといい、卑怯
とは申すなれ。かくいうは、武蔵国児玉党の一人、庄ノ四郎高家」 と叫んだ。 そしてすぐ 「見参っ」 という声と一しょに、三騎が、三方から迫ろうとすると、経正は、遁
れ得ぬ時と覚ったか、駒を飛び降りて、砂上へすわるやいな、自刃
してしまった。 四郎高家は、躍りかかって、首を挙げた。 が、えならぬ香気に、ふと、髻
をかき分けてみると、梵字
の護符 が、秘めてあった。後に、首が都へ送られてから、梵字は、仁和
寺 の法親王の親筆とわかった。 その御室
の君と経正とは、かの “青山
” の琵琶 を介
しての御縁もふかく、また、経正の幼少の頃からその優雅な性情を愛されていた師の君であったことも知れた。 ── で、やがて梟首
の後、首は、仁和寺が申し受けてゆき、ある夜、経正の霊のために、ひそやかなる琵琶
回向 が御室の春のやみに営まれたということである。 |