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2010/10/26 (火) ベートーヴェンの生涯 (四)

「革新」 が勃発していて、次第にそれは西欧を侵し始めていた。それはまたベートーヴェンの心をとらえた。ボン大学は新しい考えの炉であった。ベートーヴェンは1789年の五月十四日にこの大学の聴講生となる届けを出してドイツ文学の講義を聴いた。教授は有名なオイロギウス・シュナイダーであった。 (後に低部ライン地方検察官) バスチーユ占領の報がボンに伝わったときシュナイダーは講壇で熱烈な詩を朗読して学生たちを感激させた。翌年彼は革新的な詩集を出したがその予約申し込者の中に、ホーフムージクス・ベートーヴェンの名とブロイニング家の名があった。
1792年十一月にベートーヴェンがボンを発ったのは、ちょうど戦乱がボンへ侵入して来たのと入れ違いだった。彼は、当時のドイツの音楽首都であったヴィーン市の落ち着いた。
ヴィーンへ趣くとじ途次、彼は、フランスに向かって進軍するヘッセンの軍隊に行き遭った。
彼は確かに愛国的感情に憑かれた。1796年と97年とに、彼はフリートベルグ作の二つの戦争詩を作曲した。
一つは 『出征に際してのヴィーン市民への告別の歌』 であり他は合唱歌 『われらは偉大なるドイツの市民』 である。しかし彼が 「革新」 の敵たちを歌おうとする努力は甲斐なきことであった。
「革新」 は世界を征服し、またベートーヴェンをも征服したからである。1798年以後、オーストリーとフランスの関係は緊張していたにもかかわらずベートーヴェンはフランス人たちとの、フランス大使や、ちょうどヴィーンへ到着したばかりのベルナドット将軍との親密な関係に入った。ベルナドットの一行中に提琴家のクロイツアーがいた。それが後年あのすぐれた 『クロイツアー・ソナータ』 をベートーヴェンが献呈した提琴家なのである。こんな交遊からベートーヴェンの心には共和主義的な感情が形作られ始めた。そしてその感情の巨大な発展を、われわれは彼のその後の全生涯の中に見るのである。
この時期の彼を描いたシュタインハウザー作の素描画像は当時の彼の姿をかなり良く示している。その後の様々なベートーヴェンの肖像に比較してみると、あたかもゲラン作のボナパルトの肖像、あの野心的情熱に噛まれている鋭い表情の画像が他のいろいろなナポレオン像に対して持つ関係と似通うところがある。
この像ではベートーヴェンは年齢より若く見え、痩せて、首を真っ直ぐにして、高い襟飾りの中で硬ばり、油断の隙を見せぬ緊張した目つきをしている。
彼は自分の価値を自覚している。彼は自己の力を信じている。1796年に手帳の中にこう書いた。
「勇気を出そう。肉体はどんなに弱くともこの精神で勝って見せよう。いよいよ、二十五歳だ。一個の男の力の全部が示されるべき年齢に達したのだ」
フォン・ベルンハルト夫人およびゲーリングの言っているところによると、彼ははなはだ尊大で、がむしゃらで憂鬱で、それにまたひどい国なまりで話していた。しかし最も親密な友人たちだけは、ベートーヴェンの霊妙な親切さを ── 尊大に見える不器用な態度の背後に隠れていた親切さを識っていたのである。
あるとき彼がヴェーゲラーに自分の音楽会の大きな成功の模様を知らせたとき、まず第一に彼の思いついた考えというのはこうであった。 ──
「たとえば今、一人の困窮している友に僕が出逢うとする。僕の財布が即座に彼を助力してやれないとすれば僕は自分の机に向かって坐りさえすればいい。たちまちその友人は助かるわけだ。・・・・これは素敵な状態だといえるではないか・・・・」
また同じ手紙の少し先でこう言っている。
「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ。」
Dann soll meine kunst sich nur zum Besten der Armen zeigen.

『ベートーヴェンの生涯』 著:ロマン・ロラン 訳:片山 敏彦  発行所:岩波書店 ヨ リ
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