〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/25 (月) 『新・平家物語 (十一)』 P−175 〜 P−176

本三位ほんざんみの 中将ちゅうじょう 重衡しげひら は、知盛とももり とおなじ生田の副将軍であった。
彼もまた、乱軍の中に行き ぐれ、手勢も失って、乳母の子の後藤ごとう 兵衛ひようえ 守長もりなが と、たった二騎で、逃げ走っていた。
知盛の弟であり、故入道清盛の五男という、ゆゆしい君だけあって、なみ 千鳥ちどり直垂ひたたれ に、むらさき裾濃すそごよろい鍬形くわがた のかぶと、そして太刀も黄金こがねくら金覆輪きんぷくりん 、馬は童子どうじ 鹿毛かげ という逸物いつもつ であった。まことに、美しくはあるが、深園の名禽めいきん が、逃げ惑うような弱々とした姿であった。
湊川を渡り、刈藻川も一散に越えて、
「駒ヘ林の味方の船へ」
と、急ぐらしかったが、 けまわして来た源氏の二将にさえぎられ、余儀なく、須磨ノ浦から明石へさして、まぎ れ落ちて行った。
すると、その途中、童子どうじ 鹿毛かげ は矢に当たって、重衡の身は、磯松の間へ、ほうり出された。
「しまった。守長守長。── 待たぬか、守長」
重衡は、そ知らぬ顔をして馳けてゆく乳人めのと の守長へ、
「主の難を見ながら、一人でいずこへ落ちるぞ。日ごろのあるじを見捨てる心か」
と、大声で言った。しかし守長は、振り向きもしなかった。一そう馬腹にムチをくれて、ただひとり雲をかすみと逃げてしまった。もう覚悟のほかはない。
重衡は、波打ち際に立って、海を見た。 「身を投げんか」 と思うらしかった。けれど、その時、後ろで、敵将の声がした。
「それにおわすは、三位中将の君と見奉る。 しゅうは仕りますまい。御観念あって、それがしの駒へ身をお託し遊ばされい。庄ノ三郎忠家が、いずこまでも、おん供申し上げましょうほどに」
「・・・・・・・」
振り向いて、重衡はじっと、その武将を見た。
忠家は、この大獲物を前にして、燃ゆるばかりの眼光だったが、重衡の には、あきらめの色のほか、何も見られなかった。やがて重衡は、その公家風な口髭くちひげ の辺りに、今は逃れ得ない運命を直視するかの如く冷ややかなかげ をちらと見せ、
「・・・・ぜひもない。いざ、ひかれよ」
と、かすれた声で、自分をわら う如く言った。
忠家は、自分の馬へ、生捕いけど りの三位中将を乗せ、自分は更馬かえうま を求めてまた り、意気揚々と、味方の陣へ連れて行った。

『新・平家物語(十一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ