明泉寺の下
── 夢野の辻へ出た。 知盛の肚
では、ここまで来れば、味方の教経
か通盛 の手勢と一つになれようと考えていたものらしい。 ところが、こに鵯越え口も、はや、破られた後だった。 道には、味方の小旗や、打物や、兵や死馬の屍
が、通れもせぬほど、乱離
だった。 「さては、ここも、一ノ谷も」 いまは、知盛もすべてを知った。この高所に立てば、いやでも、味方の総敗軍は、ひと眼であった。 追っかけて来た源氏は、武蔵児玉党の十数騎で、 「やっ、あれに」 と、知盛を指さしあった。そして、人数を分け、道の先へも、馳けまわろうとした。 「ここの防ぎは、わたくしが
──」 突然、こう叫んで、知盛のそばを離れたのは、彼の一子知章
だった。 われから、近づく敵の前へ立ちふさがって、 「下臈
っ、推参 」 と、一騎の敵を斬り伏せ、もいちど、父の姿を振り向いて叫んだ。 「ここは、知章が殿軍
いたしますれば、父君には、はやく、主上の御船へ」 ── と見て、家臣の頼賢
も、 「おうっ、お健気
よ」 と知章と力をあわせ、敵のかたまりへ、ともに一命をぶつけて行った。 もとより、その阻止も、怒涛
の前に手を拡げたようなものでしかない。 しかし、小さくとも、その力闘は、たしかに、猛馬群の足もとを一瞬、行きつかえさせた。当然、監物
頼賢 がまず乱刃
の下に斬り落とされた。そしてまた紅顔の公達
、平 知章
も、無数な刃のなかに、花の姿を、さんざんに、斬りさいなまれた。 知章は、まだ十七。 親の知盛は、子のために、からくも、虎口
を逃れ得たのだった。 彼は、すでに味方の総敗軍と分かったので、真一文字に、磯
の方へ向かって馳け、今し、輪田ノ岬を離れようと騒いでいた船の一艘を大声で呼びとめた。 ところが、船は、敗走の将士で埋まり、傾ぐばかり船脚も沈めている。 知盛の体だけは、どうやら、乗ることが出来たが、馬は乗せきれない。
「馬は捨て給え。人の命には代えられぬ」 と、船上の味方は、口々にわめき騒ぐ。 中でも、阿波
の田口 重能
は、 「中納言の君の御馬は、人も知る名馬、あのような良馬を、敵の手に獲
させてはなるまい。ひと思いに、射殺せ」 と、言った。 馬は長年飼われた主をよく知っている。 船へは上げられず、陸へも帰らず、潮の中に狂い立ったまま、悲しげに、二度三度、鼻を振り上げて、いあなないた。 その長い喉
もとを眼がけて、敗軍の狂兵たちが、矢をつがえたのを見、知盛は、 「待て、射たらゆるさんぞ。多年の愛馬。しかも、今日のわが命を、助けてくれたのもこの馬だ。あわれ、、よい主人に拾われてくれよ」 と、泣いて馬を陸へ追いやった。 後にこの馬は、源氏の河越重房に拾われて、院のお厩
へ献上されたという。 それにしても、馬にさえこれほどの愛情を持つ知盛が、わが子の知章の討死にを後ろに見捨ててなぜ逃げたのだろうか。 もちろん、知章は、父の身代わりになる気で敵へ当たったに違いない。ともに討死にしては、彼の願いは届かないことになる。
── それもあるし、またおそらく、知盛の胸には、 「ここで、自分が果てては」 という後日の悲願もあったに相違ない。平家の未来を見とどけないでは、死ぬにも死に切れないとする無念に駆られていたろうことも、察するに難くない」 |