〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/24 (日) 『新・平家物語 (十一)』 P−147 〜 P−149

あたりの草は、たちまち、碧血へきけつ に染まり。泥土は飛んで、すさまじい激闘の人馬を包んだ。
「あたらぞう 武者むしゃ の手にかかり給うな。逃げ落ち給え、わが殿」
戦い戦い、通盛の家臣は叫んだ。
だが、つかの間に、絶叫も絶え、彼らのかばね は、源氏武者の刃の下に次々と捨てられた。 ── そして、通盛もまた、危うかったが、とっさに、馬の腹を り、その姿も騎首も、まっ逆さまに、坂道を馳けて行った。
「や、あの君を逃がしては」
初めから、通盛をねら っていた木村源吾は、飛ぶが如く追っかけながら、持ちかえた弓を張り、二筋三筋、つる を切った。
その一本が馬に立った。たてがみを高く打ち振り、狂いいなないたと見えたとき、通盛の姿も馬も、右側のがけ へまろび落ちていた。
源吾も、すぐ馬を捨て、崖を馳けつつ、何度もころんだ。つけねら う人の影は、樹間を走って、刈藻川のそばへ出ている。
やっと、近づきえて、源吾は何かわめ いたが、どうしたものか、正しくは名のり得なかった。
そこは長田の下、土俗のとな えで、夫婦めようと いけ と呼ばれている昼も薄暗い所だった。
「源吾よな」
通盛の方から言った。
大樹の幹を後ろに、その人は、きっと立って、近づく者の影を、いやしむように めつけていた。
その血相といい、つづ れたよろい や、剣装の光が、何か、妖気ようき をおびているものみたいに、源吾を威圧した。いや、もと仕えていた一門の君という潜在感が、彼をひる ませたのかも知れなかった。
しかし、平時では近づき難い人であればあるほど、彼の功名心は大きく駆られた。
もいちど、彼の赤黒い口が、大きく開いて、何か獣に近い声を発するやいな、大太刀の青光と共に躍りかかった。通盛は、なお手にしていた長巻をもって打ち払い、決して、この功名鬼の野望は遂げさせそうもなかった。
源吾も勝負あせりに見え、通盛も打物疲れをしてきたか、たちまち、双方とも獲物を捨てて組討となった。そして、もろくも源吾は組み敷かれ、
「辱こそ知れ、この下臈げろう
と、もがき抜くその面を下に見、通盛は、痛罵つうば を加えた。
けれど、にわかに通盛の容子に、狼狽ろうばい が見えた。短刀のさや が脱けていなかったのである。とも気づかず、鞘のまま源吾ののど もとを突いたので、当然、下からの抵抗はなお止んでいない。
やはり、通盛も、まことの武門の育ちでなかったのである。彼はあわてて短刀のひも を口で解こうとした。 ── その間髪に、源吾は彼を ね返し、今度は通盛を下に抑えつけた。
「── 討ったっ。三位通盛卿のみしるしを、木村源吾俊綱が討ったぞ」
血しおのかたま りのような物を横抱きにしたまま、彼の姿は狂気したか、夢見る人間の如く、どこへともなく素っ飛んで行った。

『新・平家物語(十一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ