〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/16 (土) 『新・平家物語 (十)』 P−364 〜 P−366

舞へ舞へ 蝸牛かたつぶり
舞はぬものららば
馬の子や 牛の子に
くゑ させてん 踏み破らせてん
  ── おしとんど おしとんど
舞へ舞へ 蝸牛
まこと しう舞ふたらば
車にや乗せてん 花の園にや遊ばせてん
  ── おしとんど おしとんど
池の向こうの遍照へんしょう の下あたりで、こう、声をそろえて歌うのが、池水にこだまして、こちら側の岸まで手に取るように聞こえてくる。よほどたくさんな子供たちらしいのだ。
そこはひがし 嵯峨さが広沢ひろさわいけ
何か主でもいそうな大池の水の には、白い雲が、動きもせず、浮いていた。
子供らは、かなたの無人のきょう を行く淋しさを、唱歌でまぎ らわそうとするのか、それとも、みそさざいやうぐいす や、駒鳥こまどり とおなじように、春さきの天地をおど っているのか、声はするが、なぎさ の木々は深いので、かれらの影は見えもしない。 
住吉 ところ のおんまへ にや
眉目みめ よき女体ぞおはします
  チイタラ トウタラ トウタラリ
男はたれぞ尋ぬれば
松ケ崎なるすき男
  トウトウ タラリ チイタラリ
大人の罪とも、世間の悪さのせいとも言えよう。彼らは、彼ら独自な天真を発露するに適した、いい歌も持たなかった。
その唱和は無邪気に声も澄んでいるが、季節の歌詞でもないし、童心に合ったものでもない。どこかで聞き覚えた大人のものを、わいわいと真似まね ているに過ぎないのである。
それも初めのうちはまだよかったが、すこし途切とぎ れて、そして歌うタネもなくなって来ると、なおさら大人の領域へ入って、
鈴は さや振る 藤太巫女みこ
目より上にぞ 鈴は振る
ゆらり ゆらりと 舞ひ腰に
目より下にて 鈴振れば
懈怠けたい なりとて あなゆゆし
神は おん腹立てたまふ
と純然たる酒間の道化歌を合唱し出したり、また、

王子 (王子の社) の お前の笹草は
駒は めども なほ茂し
ぬし は来ねども  殿どの には
ゆか ぞなき 若ければ

などと大人ですらも、顔を赤らめそうな卑猥ひわい な俗歌を、平気でというよりは、むしろ余りにも人界に遠い感じの静寂へ向かって何かへ逆らってみたいように、ありったけな声を張って、怒鳴るのだった。
『新・平家物語(九)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ