〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/12 (火) 『新・平家物語 (九)』 P−168 〜 P−171

「── 敵」
と、実盛は、無意識に突っ立ち、そしてまた、松の根に腰をすえた。
追撃隊の一陣が、つむじを作して、近づいて来るらしかった。
砂丘の上をこえ、下をこえ、誇り気な甲冑かっちゅう の歩騎の影が、わらわらと、先を争って通ってゆく。
実盛のいる一丘いっきゅう の上にも、やがて、躍り上がって来た木曾の一群がある。
「やっ、敵よな。そこなる影は」
一人は実盛の影を見つけ、ぐるりと、馬をまわして、 しかけて来た。
実盛は、わざと、敵のくら わきへ、ぴったりと飛びついて、振り下ろしてくる相手の長柄を、つかみ取った。
その勢いで馬上の者は、もんどり打って、鞍から落ちた。しかし、柔軟な体躯たいく の持ち主は、苦もなく ね起きて、実盛へ組みついてくる。実盛は胸元に、敵のかぶと のしころをつかみ寄せて、ちっとも、動かせなかった。
「むっ。う、うぬっ」
「やわか」
た、た、た、と踏み越えながら、実盛は言った。
「名のれ。木曾殿の内の、なんと申す者ぞ」
「越中の住人、入善にゅうぜんの 小太郎行重」
「うら若さよ、年は」
「生年十八歳」
「あな無残。白面の若者の如きは、それがしの待つ相手ではない。とく去れや」
突き倒して、砂丘のくぼ へ馳け降りた。
「やあ、逃げるの、卑怯ひきょう もの 、人に名乗らせて、名のりもせず、うしろを見する法やある」
背後から行重は、なお、追って来るらしい声のほかに、実盛の走った前には、もっと巨大な相手が現れていた。黒革くろかわよろい にくるまれたその大武者は、
「ござんなれ、よい敵」
と、駒をとどめて、かっと、実盛を見、
「あな、やさしき武者かな、ただ一人、返し合わせて戦い給うか。平家が内にても、さだめし、名あるお人にて候わん、名のられよ、名のりたまえ」
と、言った。
実盛は、眸を射返して、
「さいう 殿どの は、たれぞ」
「信濃の住人、手塚てづかの 太郎たろう 光盛みつもり なり」
「うむ」
と、実盛は、体じゅうでうなずいた。
「さては望むところの敵に うたり。いで組もう、馬を下りよ、手塚」
「おうっ、望みにまかすが、名のり合わぬことやある」
「いやいや、存ずる旨あって、名は名のるまいぞ・・・・いざ寄れ、組もうぞ。組んで、見事、討ってみよ」
いいも終わらぬまに、うしろへ馳せ寄って来たさきの入善行重が、刀を振りかぶって斬りつけた。
太刀の閃光せんこう は、よろい金具に、 ねすべって火を発した。行重は、わが勢いで身を浮かせ、実盛の前に、危うい姿をさらしかけた。
とたん、手塚太郎は、馬を捨てて、実盛の正面から、でんと、組みついて行った。そして、もろ倒れになって、砂を蹴上げたと思うと、もうその手には、実盛の首を っ切って持っていた。

『新・平家物語(九)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ