〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/10/07 (木) 『新・平家物語 (九)』 P−276 〜 P−279

「おそらくは、師の御丹精がいもなく、いつまで、花らしき花も結ばぬつた い歌ばかりでしょうが、自身では、常に明日の生命いのち の知れぬがままの、偽りなき、虚心をもって、 み出たものに違いありませぬ。・・・・が今は、反古ほご さえ心の荷、川に捨んか、火に焼かんかと、まどろいながらも、いやせめて、いちどでも、師のおん目を通していただけたらと。欲をいだいて、これへ持ち参ったのでございました」
「・・・・・・・・」
「うわさには、千載集の御撰ぎょせん にかからせ給うとうけたまわっておりますが、武骨者の幼稚な歌などを、それにと望むのではございませぬ。かえって、昼夜なきおいしそみのおり、心無き儀と、恐れ入るのでございますが、平家のともがら、一門二十年余の都を去るにのぞんで、一首の歌だに、都にとどめた者もない。といわれるのも口惜しゅうてのことでございまする。・・・・あわれ、御門下の端に、かかる男もいけるよと、徒然つれづれ のお暇になと、お どお し給われば、あとは、庭の落葉とともにお焼き捨て給わろうとも、お恨みには存じませぬ。それをもって本望といたしまする」
「・・・・・・・・」
俊成は、まじろきもせず、庭面の人の影を見ていた、感動を感動のままに いて、言葉にすることを忘れている。
そのあいだに、忠度ただのり は、よろい脇立わきたて の紐を解き、ふところから一綴ひととじちょう をとり出して、身をすすめた。そして、
「「お恥ずかしゅう存じますが」
と、縁のはしに置いて、またあとへ退がった。
俊成は手に取り上げた歌の帖を、しばらく見ていたが、やがて、心から心へ、しかと約するように、静かに言った。
「日ごろの心忙しさにさえ、なかなか、人はとり まぎ れるもの、まして御一門都を落去、あと先も、ただならぬさいに、ようこそ、お訪ねくだされた。 ── この詠草えいそう とてまた、血ぐさい兵馬にあいだに、やさしきお心がけを留めておかれたもの、いわば歌の一首一首が生命いのち のお形見であろう。うた まんがための作り歌とは事ちがう。ゆめ、疎略そりゃく にはいたしますまい。 ── 忠度どの、おかたみは預かった。心おきのう、西国へお立ちあれや」
「ありがとう存じまする」
露の中に、その人影は、ひれ伏して、
「いずれは武門の末路、屍を野にさらし、はかなき名を、西海に流すことでしょうが、これで、思いおくこともありません。・・・・さらば、おいとま申して」
と、庭戸を辞して、もとのえんじゅ の木下に立った。
かぶとの をしめ、駒にまたがり、数歩去ったが、去りがてに、その影は、もいちど、えんじゅ の門を振り向いていた。そして、 かん 朗詠ろうえい しゅう の中の、
  ぜん ほど とほ
  思ひを雁山がんざん の夕べの雲に
という一詩句を口誦くちず さみながら、まだ暗い朝霧の中へ馳せ去った。
俊成は子の定家ていか と共に、門まで出て、その姿を見送っていたが、父子ともに、涙を目にため、やがて黙々と門をとざした。
忠度が遺した自集の帖には、すぐ れた歌が少なくなかった。── それから年月としつき も流れて、もう名ある平家へいけ びと のたれひとり世に存在しないころになっても、俊成は、おりあるごとに、忠度の歌がたみを取り出しては、そのときのことを、人にも語った。
また、彼のせん になる “千載和歌集” もやがて大成されたが、あまたな歌人かじん 才媛さいえん の代表的な名歌のうちに、 「故郷の花」 と題して、
  さざ波や
  志賀の都は荒れにしを
  むかしながらの
  山ざくらかな
の一首が せられてあった。これは、 「秀歌のなかの秀歌である」 と、人びとの愛誦あいしょう にのぼったが、作者の名は、 「びと 知らず」 になっていて、久しく、そのたれなるやもわからなかった。
忠度が遺した百余しゅ の中の一作だったのは言うまでもない。しかし、平家没落と共に、みな、“勅勘ちょっかん ” の科人とがびと となり終わったので、世をはばかって、俊成がわざとその名を伏せておいたのである。
しかし、さらに時世も鎌倉に移って、俊成の子、藤原定家が、 「勅撰集」 を んだときには、公然、薩摩守忠度、と名もあらわに再録された。

『新・平家物語(九)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ