〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/08/30 (月) 『新・平家物語 (一)』 P−127 〜 P−130

袈裟の母は、衣川きぬがわおうな といい、親しいほどではないが、盛遠とは、顔見知りであった。
媼の娘の袈裟が、上西門院の雑仕ぞうし をやめて、源ノ渡へ、とつ ぐ前か、あるいは、その後かも知れないが ── 何にしても、、遠藤盛遠は、いつか深く、袈裟に恋していたものらしい。
盛遠は、つと に勧学院でも、みとめられ、請来は、朝廷か学問料もたまわり、大学寮へ入って、文章もんじょう 得業とくごう しょう たり得ようとまで ── 嘱望しょくぼう されていたものであったが、近来の彼の素行は、それらの先輩や、同僚にまで、まゆ をひそめさせ、
(盛遠は、近ごろ、どうかしておる)
と、見放されていた。
彼の性来は、ひたむきだった。徹しなければ止まぬのである。博学も、剛毅ごうき も、雄弁も、ひとを群小輩と るくせも、その自負から生じている。まして、恋には、なおさらである。熱するに理性を伴わない血液と頑健がんけん な肉体と ── きょう にちかい情涙の持ち主ときている。
袈裟こそは、災難であった。盛遠にいいよられたときの、おののきも、思いやられる。
それは、執拗しつよう をきわめていたろう。一徹いってつ 、わき見を知らない男の横恋慕である。
おそらく“いのちがけ”を示したろう。 ── が、彼女も、男の脅迫の言葉に暗示を得て、同時に、“女のいのちがけ” を、胸に秘めたにちがいない。
盛遠は、ついに、死ぬか狂気するかのまな ざしで、さいごの返辞を彼女に求めた。
── 袈裟は、それに、こういう誓いを与えた。前後を、しずかに、考え合えあせて、すでの用意していた答えだった。
(ぜひもありませぬ、十四日の戌刻いぬどき良人おっと寝屋ねや へ、、先に忍んでください。その宵、良人にふろをすすめ、髪の汚れも洗わせて、酒などをあげてやす ませておきます。・・・・どう仰っても、良人が生きているうちはでは、あなたのお心に従えもいたしません。わたくしは、遠い部屋で、あなたが、ことをすませるのを、眼をつぶって待っておりましょう。 ── 良人は、打物うちもの 取っては、強者ですから、そっと、枕に近づき、濡れ髪がお手に触れたら、さっそくの一太刀で、首打ち落としてしまうことです。ゆめ、打ち損じてくださいますな)
(── よしっ)
と、盛遠は、血走った眼でうなずき、その宵、そのとおりに、実行したのである。
実に、何の苦もなく、濡れ髪の一首級を獲て、確かめるまでもない気がしながらも、小坪むかいの簀の子縁に出て、おりふしの月のあかりに、それを、かざして見たのだった。
(ちいっ!しまったっ!)
彼は、恋人の首を、持っていた。
生涯にわたる傷痕しょうこん の深手 ── 慙愧ざんき痛涙つうるい滅失めつしつ のうめきを、この時の一声にふり絞って、彼は、腰をぬかしてしまった。
── 獣すら、かなしむのか、人間の愚を、いか るのか。
その時、うまや の馬 ── あの四白よつじろ の青毛が、異様な声を発し、ひづめをあがいて、いななき止まない。
盛遠は、突然、立ち上がって、何か、 きわめくがごとく、灯りのない屋内へものをいった。そして抱えていた、血と濡れ髪とにまみれた冷たいものを、いよいよ高く抱えなおしてかと思うと、ぱっと、まがきはぎ むらなど、おどり越えて、鬼影きえい のごとく、どこかへ、走り去ってしまった。
・・・・・・・・
以上、今までの調べで判明した内容を、忠盛は、衆に告げて ── さらに、人々へ言うには。
「これは、一女性にょしょう 、一地下ちげ びと の問題ではない。院の御コおんとくくろ うし、われら武者所の名にもかかわる。もし、刑部省の手にかかり、朝廷のおんさば きをうけては、われらなんの面目やある洛内らくない 十二門路、九条の道々の口、さそくにかた めて、きっと、狂者盛遠を、からめ らえよ・・・・」
黒々くろぐろ と、聞きひそまっていた無数の形は、寂然じゃくねん と、うなずいた。清盛は、うなずくはず みに、ポロリと、自分の涙を見た。 ── ひらかれた盲恋のまぶた から。 ── そして、袈裟の美しさに、光の違う美しさを見た。もし、一歩をかえて、自分が菖蒲小路にひかれていらた、自分も盛遠と同じことをやったにちがいないと思う。痴者ちしゃ 、狂者。どっちが自分で、どっちが彼やらわからない。清盛には、どうも逮捕の自信はなかった。しかし、やがて夜明けの門をわかれ立つ他家の手勢の気負いを見ると、彼にも、人に劣らぬ勇躍がわいた。朝霧をついて け向かう鞍馬口へ、野性の眼はかがやいていた。

『新・平家物語(一)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ