〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/08/24 (火) 『新・平家物語 (三)』 P−102〜P−105

清盛は気が弱い。
じつに気の弱い一面を、かれは、身近な者や弱い者には持っている。
っては、山王の神輿みこし ぶり りに、一 を射て、満都の人々を、震駭しんがい させた彼。
熊野路からは、都のへん を聞き、快馬に一べん して、争乱の死地へ、馳せ戻ってきたほどの彼。
そして、乱後の内裏だいり に入って、殿上人げんじょうびとかん を手に納めた時には、
(きのうくれて、きょう取る。早いものだなあ)
と、大笑したというほど、人もなげな雄胆ゆうたん豪放ごうほう を持つ彼が ── おりには、じつに、彼らしからぬ、弱さを暴露ばくろ することがある。
頼朝野処分問題は、その好適例といってよい。
さきに、頼朝へは、 「二月十三日に、死罪の処置を取れ」 と内示してある。それなのに、期日が迫っても、官への手続きを取らないし、また清盛自身、何も言い出さないので、ついに、その十三日は、なんとなく、うやむやのうち に、過ぎていた。
そして、やっと確定を見たのは、それからなお、一ヶ月の余も後で、正式な沙汰さた ぶれには、次のように見えた。

一、義朝ノ子、さき兵衛佐ひたうえのすけ 頼朝よりとも
一、伊豆ノ国ヘ配流申シツケラル
一、三月二十日、京師ヲ追立テ、配所ノ地ヘ、下サレ申スベキ也
ついに清盛も、禅尼たちの乞いを、こば み得なかったのである。
禅尼の慈悲心は、さだめし満足を覚えたであろう。諸天しょてんぶつ 菩薩ぼさつ は、彼女の善根を、散華さんげ 礼賛らいさん してよいわけだ。
ところが、歴史は、皮肉である。
おり の中から、 を見て、やがて発芽した小さな生命が、伊豆の頼朝と成長して、かん 八州はっしゅう の源氏を糾合きゅうごう し、平家一門を脅威したのは、それから僅か二十年目だった。
(禅尼は、あやま っていた)
(清盛も、弱かった)
(あの時に、頼朝をだに、生かしておかなかったら)
史家はそういうし、世間も常識として、頼朝の生命一つが、やがて平家没落の禍因であったように言う。
しかし、ほんとうは、平家凋落ちょうらく の素因は、助けられた頼朝にあったのではなく、助けた池ノ禅尼の方にあったものだといってよい。
なぜなら、彼女の善行は、たしかに、良人おっと くして後も、貞潔を守ったあま 後家ごけ の慈悲心には違いなかったが、その代わりに彼女の行為はそのまま、 「政治をわたくし する昨日までの通弊」 を、そっくり清盛の家庭に持ち入れてしまった。
"政治を血族間でわたくし する" また "政治と家庭の混同" ほど、かっての藤原貴族を、腐敗させたものはない。── その手法を、禅尼はまた、六波羅の新しい苗地びょうち へ植えてしまったのだ。せっかく、保元平治の合戦と、二度までの犠牲をもってあらた められかけた新社会の様相も ── 六波羅の使命も、意義の少ないものになってしまった。
貴族政治を倒した平家が、再び貴族生活を真似まね 、一門の子弟がみな、滔々と、早熟そうじゅく 早落そうらく の開花を急いで、余りにはかない い、わずか二十年の栄花に終わってしまったのも、じつに、六波羅政治の興るとたんからもう一個の尼後家が、組織の母胎に、約束づけていたものといってよい。
だから、かりに頼朝が、助命されずに、十四歳で、斬られたとしても、平家の短命と、凋落は、必然であったろう。咲いては散り、熟しては落ち、歴史は法則どおりな興亡循環を、やはり描いていたであろうと思う。
それと、もう一つ考えられる重大な問題は、清盛の真意にも、初めから充分、 「頼朝ぐらいは助けても ── 」 という寛大な気持ちがあったに相違ないことである。
池ノ禅尼から政治上の問題に口出しされたことは、彼を反撥させたに違いない。その弊害が前例になることを極力避けようとしたものだ。そのため家庭の内輪もめとしては、彼は頼朝の助命を断然受け付けなかった。 「もってのほかな ── 」 と怒ったのである。
── けれども清盛がはら の底から頼朝を死罪にする意思ならば、禅尼の請いを れないでもすむことだった。一族の大多数はみな助命反対なのである。たとえ頼盛や重盛が、尼に助言したにしても、清盛に慈悲がない限り、頼朝の助命は見られなかったのだ。彼はいわゆる大きな腹の人だったにちがいない。その頼朝を、しかも源氏の地盤と言ってもよい ── それを源氏の根拠地へわざわざ流した。 ── 平家のために失策といえば大失策というほかはない。が、清盛も敵将の残した一少年に、心では憐愍れんぴん を抱いていたのである。彼らしい大腹中には大した懸念にもしていなかったものと思われる。
『新・平家物語(三)』 著:吉川英治 発行所:株式会社講談社 ヨ リ