平治の合戦は、その激しさ、保元の乱の非ではない。 三年前のそれは、朝廷と院と、あるいは貴族と貴族との、戦いであった。武家自体は、飼われた門に拠って、心ならずも、父子兄弟や叔父甥も、敵味方に分かれ、源平の両党も、入り交じって対陣した。 しかし、今度は違う。 源平二氏は、画然と、各々の旗の下で対立した。例外は、兵庫頭頼政だけにすぎない。 また動機も、信頼と一味の若公家は、口火役に踊っただけで、爆発したのは、源平二系統の軍部と軍部の争覇であった。 朝廷と院の二つに、政権もあり、軍も置かれ、しかもその兵は、源平二党の混成であったゆえに、久しい末期的世相を上下ともに描いて来て、今日、この戦乱が起こらなかったら、むしろふしぎといってよい。 およそ古今、地上のどこでも、一国に統帥を異にする軍部が二つ存在する場合は、かならず、軋轢し、かならずその国の乱になる。 なおのこと、軍は純一な愛と倫理の上に立つのでなければ、兵器はいつでも凶器に化し、武は変じて、暴徒に化しやすい。 武が愛するもの、守るもの、信奉するもの。──
それがその国の倫理として、一元的に愛護され合う場合のみ、武の使命とする平和は守られてゆじゅであろう。ある一つの権門だのまた、べつの摂関家の門だのに、初めから番犬的におかれた武者所がこのように豹変してきたのは、不自然的な発程ではない。 それを歴代の代の為政者は、深く思わなかった。いたずらに門に兵を飼って、保元、平治の乱をみずから招いた。自衛に持った武力のために、藤原氏自体が、いまは発言権も失い、戦火の中を逃げ回らなければ成らなかった。──
それが、今日の戦いだった。平治の合戦なのである。朝廷も院も制止する力すらないのだ。公卿百官もこうなっては、一兵の用にも足りはしない。 実相は、ただ武門と武門のたおしあいだ。源平、食うか食われるかの一日である。 もちろん彼らの愛するものは一つではない。彼らの守るもの、仕えるもの、それも真っ二つに分かれた。同じ地上に生まれながら同じ地に生きず、一つの太陽に生かされながら倶に天をいだかずとする悲しい宿業を、次代の幼い者にまで、この一戦は、約してしまった。 従って、戦闘の模様は、猛烈を極め、時間としては、その日の午前から午後にわたる短い間に過ぎなかったが、激戦また激戦が繰返され、凄愴、言語に絶するものがあった。 |