〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/04/07 (水)  嗚呼 八甲田山 (五) 『八甲田山死の彷徨』 ヨリ

神田大尉は雪の中に座り込んでいた。立ち上がろうとした。立って歩かねばならないのだ。おれが、この急を告げねば、隊は全滅するのだ。大尉はそう思った。しかし大尉は二度と雪から立ち上がることは出来なかった。
「江藤伍長、江藤伍長はどうした」
神田大尉は闇の中で叫んだ。江藤伍長の返事が背後でした。江藤伍長はどうやら立ったまま眠っていたようであった。
「江藤伍長は斥候となり、直ちに田茂木野村へおもむき、住民を雇って引き返し、わが雪中行軍隊の救助に当たるべし」
神田大尉は大きな声で命令を伝えた。突然なことなので、よく聞き取れなかったから、江藤伍長が訊き返すと、
「おれはもう動けないから、お前は田茂木野村へ行って住民を連れて来い」
と言った。さっきの越えに比較するとずっと小さくなっていた。
「神田大尉、しっかりして下さい、もう間もなく夜が明けます。夜が明ければきっと救助隊が到着します。頑張って下さい」
江藤伍長は神田」大尉を助け起こそうとしたが、神田大尉は立つことが出来なかった。
「江藤伍長、お前が斥候に行かねば雪中行軍隊は全滅するのだ。早く行け、早く田茂木野へ行って住民を連れて来い」
神田大尉は意識が混迷したのか、同じことを低い調子で何度も繰り返した。声が小さくなり、聞こえなくなったと思うとまた思い出したように同じことをしゃべった。
「江藤伍長は斥候となり田茂木野へおむむき、住民を連れて参ります」
江藤伍長は復唱した。
「よし、行け」
大尉の声を聞いて、江藤伍長は、前に出た。暗くて方向は見えなかった。心だけが下山道を歩いていた。
神田大尉は江藤伍長を斥候に出した後しばらく眠った。頭の中を怪獣が駆け廻っていた。そして明け方の寒さで、大尉は再び眼を覚ました。吹雪の中に夜が明けかかっていた。下半身の感覚は失せていた。凍ったのだった。両手にも感覚が無かった。しかし、不思議に頭がはっきりしていた。今自分がどのような状況下にあるかもはっきり分かった。なぜこのような結果になったかもすべて明瞭に頭の中で整理された。田茂木野で案内人を頼まなかったこと、小峠で下士官に突き上げられて前進したこと、第一夜の雪壕を夜中に出発したこと、進藤特務曹長が舞台を死地に導いたことが一つ一つ挙げられた。
「しかし、この雪中行軍計画を立てたのはこの神田であった。その計画の中には幾多の誤りがあった。自然を甘く見すぎていた。装備も不足だった。すべて事前の研究が不足だった。責任は全てこの神田にある」
彼はつぶやいた。つぶやいたつもりだったが言葉にはなっていなかった。
「おそらく江藤伍長は無事田茂木野へ着くだろう、そして救助隊が到着するだろう。しかし、雪中行軍隊は全滅して、此処にはおれだけしか居ないのだ」
山田少佐のことが頭に浮かんだ。山田少佐が、もし一切を自分に任せてくれていたら、指揮権を奪うようなことをしなかったら、このよなことにはならなかったかもしれない。しかし、今となってはそれは繰り言でしかない。自分は雪中行軍の計画者なのだ。そして途中何が起こったにしても、見掛け上は指揮官であった。生き残ったとしても責任は免れないのだ。昇進のは断たれるばかりか、おそらく軍陣としての生命を失うことになるだろう。生涯を軍人に賭けて来た自分が軍人でなくなった場合、一体何が残るであろうか。
生きる望みを失った場合は死ぬしかなかった。手も足も利かなかった。死ぬ方法として残された唯一の方法は舌を噛み切ることだった。
神田大尉は舌を噛んだが、歯にも力がなく、舌を噛み切ることさえ出来なかった。血が口の中に溢れた。
『八甲田山死の彷徨』 著: 新田 次郎 発行所:新潮社 ヨリ