〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2010/04/07 (水)  嗚呼 八甲田山 (四) 驚 愕 の 光 と 影

福島大尉率いる弘前三十一連隊の行軍隊 (以下 「弘前隊) は、田茂木野で二時間の休憩をとっただけで再び青森に向かって行軍を再開し、この日の二十九日午前六時、幸畑を休憩することなく通過した。福島大尉がこの日、記した漢詩の一節に 「ゆう しょう なんぞ忘れん幸畑の名を」 (幸畑という村の名をどうして忘れることができようか) がある。行軍中最大の難関だった八甲田山越えを成し遂げたものの、友軍である青森隊の遭難を知った直後だけに、青森への帰路に見いだした幸畑の 「幸」 の文字は、福島大尉に自分たちが一生を得た幸運を身にしみて感じさせたのであろう。
午前七時、青森の旅館に到着した弘前隊は、ここに一泊の予定で、死線をさ迷った身体の休養に当てた。 「ああ さん !」 という衝撃の大見出しで始まる 『東奥日報』 号外が出たのは、この日の夕刻のことであった。
青森隊の捜索には青森五連隊自身が当たる。弘前隊はただ自分たちの任務を粛々と遂行するのみであった。空前の航空機事故が起きようと、同じ航空会社の航空機が予定のフライトを続行するのと同じことである。それを “非情” や “冷酷” と呼ぶ人はいない。
翌三十日午前七時、青森を発った弘前隊は、午後四時八分、この日の目的地である浪岡村 (現青森市) に着いた。この日、青森五連隊の捜索が本格化し、作業員三百人が動員され、さい ノ河原で三十六人の凍死者が発見された。それまで未確認だった青森隊の大量遭難が現実のものとなった日であった。
一月三十一日は弘前隊の行軍最終日である。午前七時三十分、浪岡を発ち、一路、弘前の連隊屯営を目指す弘前隊の足取りは軽やかだった。途中、隊員たちは、ずいぶんと長い間見なかったような心持で岩木山の山容を仰ぎ見た。彼らはみな一様にまぶしそうに目を細めていたが、目を射るまぶしさは、雪の反射のせいだけではなく、大きな仕事を成し遂げた満足感と栄光のせいであったろう。栄光とは、直視をはばかられる太陽のようにまぶしい。
福島大尉の命令が力強く飛んだ。
「軍歌 『雪の進軍』 始めッ!」
三十七人の男たちは、雪原を踏みしめるザックザックという音を伴奏に 「雪の進軍」 (作詞・作曲=永井建子) を歌いはじめる。 「雪の進軍」 の歌詞は雪国の兵隊の悲壮さが歌われていながら、その悲壮感をカラッとした明るさで軽くいなす明治の男らしいダンディズムとニヒリズムにあふれていた。

雪の進軍 氷を踏んで どれが河やら道さえ知れず
馬は斃れる 捨ててもおけず ここは何処ぞ 皆敵の国
ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が二本
弘前隊は、青森隊の遭難騒ぎをよそに、弘前市民の熱狂的な出迎えを受けた。いや、弘前市民は青森隊の遭難を新聞や噂話で見聞していただけになお、快挙を成し遂げた弘前隊の名誉を自分たちの名誉のように感じていた。
弘前市内に入ると、弘前隊は進軍ラッパを高らかに吹奏、見習士官以上の帯刀者は抜刀し、日の丸の小旗や手をさかんに振りながら出迎える人垣の道を颯爽さつそう と胸を張って凱旋した。隊員たちの耳には、沿道から上がる 「万歳!」 の歓呼がこだまして聞こえた。
午後二時五分、多くの連隊将兵が整列して出迎える門衛を粛然と二列縦隊でくぐり、ここに弘前隊は雪中行軍の全任務を終えた。十一泊十二日、出発から帰営まで二百七十二時間三十五分、風雪の中の山岳路を行く行軍九十一時間五十二分という凄絶な任務であった。
同時期に同地域で行われた二つの雪中行軍は、青森隊の死者百九十九人と、弘前隊の任務完遂という、文字通り生死を分ける結果となった。
そして、この過度なまでの明暗のコントラストは、その後、弘前隊の輝かしい栄光にも暗い影を投げかけることになった。
『指揮官の決断』 著: 山下 康博 発行所: 樂書館 ヨリ