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2010/04/06 (火)  嗚呼 八甲田山 (二) 遭難の衝撃波、全国を走る

さん ! 至惨!!
雪中行軍隊の大椿ちん
全軍二百余の凍死

明治三十五年一月二十九日の夕刻、地元紙 『東奥日報』 の号外に踊った大活字が、雪降り積もる青森の静寂を破った。青森歩兵第五連隊の八甲田山雪中行軍隊の遭難を伝える第一報であった。
この空前の山岳遭難事件の報道は、時を移さず全国を駆巡り、いずこも寒気で冷え込んだ各地の人々の心肝をさらに凍りつかせた。同時代の人々は、おそらくこの驚くべき悲報をはじめて知った時に自分のいた場所や時刻、一緒にいた人たちの表情や交わされた会話などのすべてを不思議な明確さで記憶しているのではあるまいか。歴史的な大事件とは、そのようにして同時代の人々の脳裏に、消えない衝撃の焼印を残すものである。
事件の発端は、号外が出る一週間前、すなわち、一月二十三日にさかのぼる。
この日の朝、青森歩兵第五連隊の将兵二百十名が、八甲田山麓さんろく を縦走し しろ しん に至る雪中耐寒行軍を実施するため、青森の連隊屯営を出発した。行程は青森=田代新湯間の約20km、日程は一泊二日。天候および行軍隊の状態などの条件がよければ、翌日に田代新湯からさらに増沢ますざわ におもむいて村落露営をし、翌々日には三本さんぼん (現十和田市) まで行軍の足を延ばすという二泊三日を予定していた。
田代新潟─三本木間は約30km、ここを二日かけて行軍するというのは冬季以外の一日当たりの行軍距離が28km (七里) とされていた当時、雪中の行軍という条件を差し引いても、無理のない計画といえた。帰路は、三本木からふる (現JR三沢駅) へ出て、青森まで汽車を利用する手はずであった。豪雪と酷寒をあえておかしての演習行軍とはいえ、誰もが無謀な試みだとは決して考えなかった。
一月二十三日午前六時五十五分、青森五連隊の雪中行軍隊 (以下 「青森隊」) は連帯の営門を後にし、一路、幸畑、田茂木野を通過。ここまでは予定通りであった。そのとき天候の急変の兆しが見られたものの、一行はそのまま進軍を続行した。田茂木野より先に集落はない。
予定が狂い始めたのは午後の入ってすぐだった。天候は昼前に見た予兆そのままに悪化し、激しい風雪が行軍隊の足取りを鈍らせた。なかでも、青森隊全体の足かせとなったのは、深い雪の中で困難をきわめた十五台のそり の運搬であった。
やがて日没の時刻を過ぎ、天候はさらに悪化の度を加えた。吹雪と夜の暗さに視界を奪われた青森隊は、沢に迷い込んで道を失った。目的地・田代新湯に、あとわずか1.5kmまで迫った地点である。つのる一方の猛吹雪と豪雪に行く手を阻まれ、進退窮まった青森隊は同日夜、ついに雪中露営をよぎなくされた。
しかし、不十分な雪濠の中で朝を待つまでの間に凍傷者が続出することを恐れた山口隊長は、午前二時半、青森の原隊への帰営を決定、二百十名の将兵は夜明けを待たずに雪濠を後にし、法角を知るための磁石さえ用をなさない厳寒の暗夜、胸まで埋まる雪の中へと踏み出していった。これが、いわゆる “死の彷徨ほうこう ” の始まりとなる。
青森から約13km隔たった大滝おおたき だいら 付近で雪中に半身を埋めたまま佇立ちょりつ した仮死状態の後藤総之助伍長が救援隊のよって発見され、はじめて遭難の一端が明らかになったのは一月二十七日のことである。この日までの四昼夜、青森隊は八甲田の零下の白い地獄の中を帰営への道を探しに探しながらさ迷い続けたのであった。その間、将兵たちは、火もなく、食糧もなく、想像を絶する寒気に凍え、凍傷におかされ、睡魔に押しひしがれ、疲労に蝕まれ、幻視・幻覚にさいなまれ、ついには力尽きていった。
こうして、凍死者は百九十九人に達した。死者百九十九人は、現在でも山岳遭難史上最悪の事件である。

『指揮官の決断』 著: 山下 康博 発行所: 樂書館 ヨリ