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2010/04/05 (月)  嗚呼 八甲田山 (一) 無念、二百十柱の墓標

幸畑こうばた は青森市の中心部の青森駅から南東に約七キロ、八甲田山の山裾やますそ が始まるあたりのなだらかな高原に開けた小さな村である。この美しい名の土地に陸軍墓地がある。
陸軍墓地の一角に、西洋の軍陣墓地を思わせる、明るく開けた美しい墓苑がある。松と松が立ち並ぶ一段高い土塁を周囲にめぐらし、芝生を張った開けた平地に白い方柱の墓標が整然と立ち並んでいる。
のびやかな距離を保って立ち並ぶ墓標は、春には校庭いっぱいに広がった白い運動着の子供たちのようにも見え、夏には港で白い帆を休めるヨットの一群のようにも見え、秋には林立する白樺のようにも見える。そして、一面が純白におおわれる冬、──それは道を失って立ち尽くした彼らの最期の悲しい姿に重なるのだった。
墓標の数は二百十.日露戦争前夜の明治三十五年一月、八甲田山雪中行軍中に遭難した青森歩兵第五連隊の行軍隊員の墓標である。
一月二十三日の総長、青森の連隊屯営とんえい を出発した二百十名の行軍隊は、ここ幸畑を通過し を経て雪の八甲田山に分け入った。しかし、生きて再びここ幸畑を通り、青森に帰りついた隊員はわずか十七名にすぎなかった。しかも、そのうち六名が収容先の病院で絶命し、残った十一名のうち八名が重い凍傷のため手足を切断せざるを得なかった。もとの健康体で復帰できたのはたった三名である。
あの空前の遭難から一世紀をすぎた今、酸鼻を究めた生々しさは、さわやかな山の空と陽の光によって洗い去られ、清澄な空気が墓地全体を静かに支配している。
墓地の中央を東西に通う石敷きの参道の正面中央には、一段高い台座の上にひときわ大きな英霊碑と明治天皇・皇后御歌碑がそびえ、その真ん中に最も大きな墓石が立っている。雪中行軍隊を率いた山口ユ少佐の墓である。
その墓を中心とした左右両側には、本尊を守るわき のように、尉官 (大尉・中尉・少尉) の墓が階級順に立ち、下士卒の墓標は一段下の芝の上に、参道の南北に分かれて慎ましやかに並んでいる。
出発前に指揮官から訓示を受けた行軍隊の整列体系そのままを思わせる墓標の配置に、死してなお階級がいき続ける軍隊社会というものの容赦のない一面を感じると共に、七たび生まれ変わって隊伍の整列を乱さず、情感の号令を遵守する平氏の忠誠心とはこういものかと、彼らの担った運命の悲壮さに自然と瞑目して手を合わせたい気持ちになる。
二百十名の兵士たちは、自分たちが、近い将来に必ず始まる日露戦争を戦う運命にあることを知っており、それに備えるための苦しい訓練に日夜耐え続けていた。彼らは伝統ある青森五連隊の一員として、激しい戦闘の中で敵弾に倒れることも覚悟していただろう。大国ロシアを打ち破って意気揚々と凱旋し、青森五連隊の名を全国に轟かせることも夢見ていただろう。いずれにせよ、連隊は心を一つに結んで生死を共にし、愛する祖国を守る気概に燃え立っていた。
しかし、彼らに死をもたらしたのは、ロシア軍の弾丸ではなかった。

『指揮官の決断』 著: 山下 康博 発行所: 樂書館 ヨリ