「・・・・さまで思し召し給わるか」 遠くの波光りか、知盛の胸に起こった波か、彼の顔に、揺れが見えた。そのあと、白さを超
えた頬や、唇くちびる のあたりを、涙とわかる光りが、さんぜんと、たばしっていた。 が、あわてて面をそむけ、そして、初めて声を出して笑った。 「惜しみ給わるお心はいとうれしいが、たとえここのおん命を、優やさ
しき敵の大将にあずけ参らせたとて、おそらくは、あの御幼帝の先々、いかがあろうか。── 都には、べつに後白河の上皇きみ
の立てたる天子のあること、かつは、九族までも、院の憎しみを給う清盛公のおん孫にもあたらせらるるを思えば、よも、都の中に安けくおん母と一つにおくを許し給うはずはない」 「・・・・・」 「さらにはまた、判官どのとて、身に覚えもありつろう。院の殿裡でんり
、廷臣の弄策ろうさく 、武権と政事まつりごと
の常なる噛か み合い。およそ今の都は、ここ壇ノ浦にもまさる修羅しゅら
の明け暮れと申せよう。・・・・そのような中に、宿命のみかどが、なんで人の子らしい、おすこやかな御成人をとげられようか。物心を知り給うお年ごろとなればなるほどお身は危うい」 「・・・・では、わだつみの底へ抱き参らせたるは、わざとなる、慈悲との御思慮であったのか」 「いや、慈悲などとなんで思えよう。申したは、あきらめの言葉。まことは、この知盛が、おのれの船を焼き捨ててこれへ馳は
せ参ったとき、すでに、尼公も見えず、みかどもおわさず、事終わっていたものを」 すると、それまで、ただ、知盛の言に耳を澄まして佇たたず
んでいた時忠が、はっと、何か突然、ある想像を打ぶ
つけられたように、声を発した。 「あ、いや。・・・・帥帥そつ
が申すには、そのおり、すでに知盛どのは、このお船にあったと聞くが」 知盛もまた、はっと、眸を時忠父子へ向けた。が、なぜか沈黙をつづけた。感情の乱れや、前後の思慮を、ととのえていたに違いない。 「叔父君よな・・・・」
やがて、依然静に 「お言葉なれど、 帥そつ
ノお局つぼね には、何事も御存知はない。知盛を見たといわるるは、まぼろしか、知盛に似た人か、いずれかであったのでしょう。御気丈な叔母君にてはあれど、やはり女性にょしょう
、まして恐ろしき一瞬の飛沫ひまつ
や悲泣のつむじの中でのこと。── この後とも、帥そつ
の叔母君が見たといわるる儀は、なべて、幻影にほかならじと、お聞き流しあって、ゆめ、御他言などはつつしまれたい」 「・・・・そうか」 時忠は、うめくように言った。ただ一言、そう言ったのみで、知盛に顔から、何か、読み取ろうとするものの如く、穴のあくほど凝視していた。──
が、知盛は同時に、つつつと、後ろの人影の内へ身を後退あとず
らせていた。そして早口に 「── 伊賀っ、伊賀っ」 と、まわりへ呼び、 「はやここを去れ平内左衛門。あとは知盛がひきうける。はや行け」 と、叱咤しった
して追いたてた。 舳みよし
の下に、一艘の空船がつながれていた。伊賀平内左衛門はじめ、十数名の影は、知盛の叱咤と同時に、わらわらとそれへ跳び降り、そしてたちまち、闇の内へ漕こ
ぎ去った。 「・・・・・・」 その間、知盛は、両手の薙刀を大構えに持って、何人なんびと
たりとも、邪さまた げる者とは戦わんという意志を示していた。 義経もまた、弁慶以下、たれの手出しも許さない。彼らの足掻あが
きを、後ろに支え、あえて見過ごしていたのである。 「やよ叔父君」 やがて、言った。そういう知盛の面に、ひごろのもののような微笑がのぼっているのを、時忠は、はっとして見た。 「平家のあとのこと、くれぐれ、頼みまいらせる。おゆるしあれ、知盛はわがまま者。ただ今より、母の二位どのを追うて、安けき所へ急ぎますゆえ」 「──
あ、待たれよ」 時忠は、われを忘れて、まろぶが如く、彼のそばへ駆けた。 が、じつに、とっさにその人影はかき消えていた。今まで物を言っていた権中納言知盛は、知盛の亡霊か、幻でもあったように、それは一颯いっさつ
の風に似、人々の眼を疑わせた。 けれど、たちどころに、ざぶんと高い水音がした。その飛沫は、すぐ波間をのぞいた人びとの肩や顔にも冷たくかかった。いちめんな蛍光けいこう
をもった泡つぶはいつまでも消えなかった。その拡がりや飛沫の高さから見て、知盛は、身ばかりでなく、とっさに碇いかり
を抱いて沈んだもののようであった。 |