〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part V-T』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十四) ──
だんうら の 巻

2014/06/23 (月) げん じん (四)

「・・・・さまで思し召し給わるか」
遠くの波光りか、知盛の胸に起こった波か、彼の顔に、揺れが見えた。そのあと、白さを えた頬や、くちびる のあたりを、涙とわかる光りが、さんぜんと、たばしっていた。
が、あわてて面をそむけ、そして、初めて声を出して笑った。
「惜しみ給わるお心はいとうれしいが、たとえここのおん命を、やさ しき敵の大将にあずけ参らせたとて、おそらくは、あの御幼帝の先々、いかがあろうか。── 都には、べつに後白河の上皇きみ の立てたる天子のあること、かつは、九族までも、院の憎しみを給う清盛公のおん孫にもあたらせらるるを思えば、よも、都の中に安けくおん母と一つにおくを許し給うはずはない」
「・・・・・」
「さらにはまた、判官どのとて、身に覚えもありつろう。院の殿裡でんり 、廷臣の弄策ろうさく 、武権と政事まつりごと の常なる み合い。およそ今の都は、ここ壇ノ浦にもまさる修羅しゅら の明け暮れと申せよう。・・・・そのような中に、宿命のみかどが、なんで人の子らしい、おすこやかな御成人をとげられようか。物心を知り給うお年ごろとなればなるほどお身は危うい」
「・・・・では、わだつみの底へ抱き参らせたるは、わざとなる、慈悲との御思慮であったのか」
「いや、慈悲などとなんで思えよう。申したは、あきらめの言葉。まことは、この知盛が、おのれの船を焼き捨ててこれへ せ参ったとき、すでに、尼公も見えず、みかどもおわさず、事終わっていたものを」
すると、それまで、ただ、知盛の言に耳を澄ましてたたず んでいた時忠が、はっと、何か突然、ある想像を つけられたように、声を発した。
「あ、いや。・・・・帥帥そつ が申すには、そのおり、すでに知盛どのは、このお船にあったと聞くが」
知盛もまた、はっと、眸を時忠父子へ向けた。が、なぜか沈黙をつづけた。感情の乱れや、前後の思慮を、ととのえていたに違いない。
「叔父君よな・・・・」 やがて、依然静に 「お言葉なれど、 そつ ノおつぼね には、何事も御存知はない。知盛を見たといわるるは、まぼろしか、知盛に似た人か、いずれかであったのでしょう。御気丈な叔母君にてはあれど、やはり女性にょしょう 、まして恐ろしき一瞬の飛沫ひまつ や悲泣のつむじの中でのこと。── この後とも、そつ の叔母君が見たといわるる儀は、なべて、幻影にほかならじと、お聞き流しあって、ゆめ、御他言などはつつしまれたい」
「・・・・そうか」
時忠は、うめくように言った。ただ一言、そう言ったのみで、知盛に顔から、何か、読み取ろうとするものの如く、穴のあくほど凝視していた。── が、知盛は同時に、つつつと、後ろの人影の内へ身を後退あとず らせていた。そして早口に 「── 伊賀っ、伊賀っ」 と、まわりへ呼び、
「はやここを去れ平内左衛門。あとは知盛がひきうける。はや行け」
と、叱咤しった して追いたてた。
みよし の下に、一艘の空船がつながれていた。伊賀平内左衛門はじめ、十数名の影は、知盛の叱咤と同時に、わらわらとそれへ跳び降り、そしてたちまち、闇の内へ ぎ去った。
「・・・・・・」
その間、知盛は、両手の薙刀を大構えに持って、何人なんびと たりとも、さまた げる者とは戦わんという意志を示していた。
義経もまた、弁慶以下、たれの手出しも許さない。彼らの足掻あが きを、後ろに支え、あえて見過ごしていたのである。
「やよ叔父君」
やがて、言った。そういう知盛の面に、ひごろのもののような微笑がのぼっているのを、時忠は、はっとして見た。
「平家のあとのこと、くれぐれ、頼みまいらせる。おゆるしあれ、知盛はわがまま者。ただ今より、母の二位どのを追うて、安けき所へ急ぎますゆえ」
「── あ、待たれよ」
時忠は、われを忘れて、まろぶが如く、彼のそばへ駆けた。
が、じつに、とっさにその人影はかき消えていた。今まで物を言っていた権中納言知盛は、知盛の亡霊か、幻でもあったように、それは一颯いっさつ の風に似、人々の眼を疑わせた。
けれど、たちどころに、ざぶんと高い水音がした。その飛沫は、すぐ波間をのぞいた人びとの肩や顔にも冷たくかかった。いちめんな蛍光けいこう をもった泡つぶはいつまでも消えなかった。その拡がりや飛沫の高さから見て、知盛は、身ばかりでなく、とっさにいかり を抱いて沈んだもののようであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ