四方
の草木 をば平家
の一類 となぞらへ、大木
の二本ありけるを、一本を清盛
と名づけ、一本をば重盛
と名づけ、太刀 を抜いて散々
に斬 り、ふところより、毬打
の玉 の様
なる物を二つ取り出し、木の枝にかけて、一つをば清盛が首、一つは重盛が首とて懸けられけり。かくて暁にもなりしかば、忍びて帰り、我が坊
に衣 引きかづき臥
し給へり。人これを知らず。 和泉
と申す法師、御介錯
参らせけるが、この御ありさま只事
にはあらじと思ひて、目をも放ち奉らず。ある夜の夜半に御身にそふ影のごとくして行きける。ある草むらの蔭に忍び見ければ、かやうに振舞
ひ給ふ間 、急ぎ鞍馬へ帰りて、東光坊
にこのよしを語りければ、阿闍梨
これを聞き給ひて、良智坊の阿闍梨に告げ、今日衆徒
に触れ奉りて、 「牛若殿
の御髪 剃
り奉れ」 とぞいはれける。 |
牛若は、四方の草木を平家の一門に見立て、中にも大木が二本あったうち、その一本を清盛と名づけて、他の一本を重盛と名づけて、太刀を抜いてはげしく斬りつけ、懐中から毬打
の玉のようなものを二つ取り出し、それを木の枝にかけ、一つを清盛の首、もう一つを重盛の首といって晒者
にした。こうして明け方になると、こっそりと帰り、自分の宿所で夜具をかぶっておやすみになった。人々は、このことのに気づかなかった。 だが、和泉
という僧で、牛若の身のまわりのお世話をしていた者が、そのご様子がふつうでないと気づき、内々注意をしていた。ある夜の真夜中に、和泉坊は、牛若の身につきまとう影のようにその後をつけて行った。そしてある草むらの蔭に身をひそめて様子をうかがってみると、牛若がこのような振舞いをなさるので、すっかり驚き、急いで鞍馬へ引き返して東光坊にそのことを語った。阿闍梨
(東光坊) はこれを聞かれ、良智坊の阿闍梨に知らせて、その日寺中の衆徒たちにもお触れになり、 「牛若殿のお髪
をお剃 り申せ」 とおっしゃった。 |
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良智坊この事を聞き給ひて、「幼
き人も様 にこそよれ。学問
と申し、容顔 世に越えておはすれば、今年
の受戒 はいたはしくこそ思ひ参らせ候へ。明年の春のころ、剃
り奉り給へ」 とぞ申されける。 「誰も御名残
はさこそ思ひ参らせ候へども、かやうに御心不定
になりて御わたり候へば、わが為
、御身の為然 るべしとも覚えず。ただ寄りて剃
り奉れ」 と宣 ひけれども、牛若殿、
「何 ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものを」
と、刀の柄 に手うち掛けておはしましければ、左右
なく寄りて剃るべしとも見えず。 |
良智坊はこの事をお聞きになって、
「幼い人の髪を剃るのも、その事情いかんによります。牛若殿は学問といい、また顔かたちといい人並み以上でおいでですから、今年受戒
させて僧侶にしてしまうことは、かわいそうに思われます。明年の春の頃に、お剃りなさいませ」 といわれた。けれども東光坊は、 「誰
でも、僧形 にする名残
惜 しさは当然のこととは思うが、このように牛若殿の御心が動揺するようにおなりになるうえは、わが寺のた為にも、牛若殿ご自身に為にも、よいこととは思われぬ。どうしても近づいてお剃りいたせ」
とおっしゃった。しかし牛若殿が、 「たとい何者でも、近づいて髪を剃ろうとする者は、容赦なく突いてやるぞ」 と、刀の柄
に手をかけて身構えていらっしゃるので、容易に近寄って剃ることが出来ようとも思われなかった。 |
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覚日坊
の律師 申されけるは、
「これは諸人の談義所
にて候ふ間 、静かならぬにこそ、学問にも御心入れらね候はね。あれは傍
らにて候へば、御心静かに今年ばかりは、身が候ふところにて御学問
候へかし」 と申されければ、東光坊
も、さすがにいたはしくや思はれけん、 「さらば」 とて、覚日坊
へ奉り給ひけり。名をさへ変へられて、遮那
王 殿とぞ申しける。それより後
は、貴船 の物詣
では止 まりけり。日々に多門
に入堂 し、謀反
の事をのみ祈られけり。 |
それを見て、覚日坊の律師がこう口添えをなさった。
「ここは多くの人が集まる談義所ですので、騒々しいために、牛若殿も学問に身がおはいりにならないのでございましょう。あちらは山はずれですから、御心落着けて、今年いっぱいは私のいる所でご学問なさいませ」
と仰せになったので、東光坊もさすがにかわいそうに思われたのだろう。 「それならば」 といって、牛若を覚日坊へお預けになった。牛若はその名前まで変えられ、以後遮那王
殿
と呼ばれる事になった。 それから後は、牛若の貴船神社への参詣も止
んだ。しかし、毎日本尊の毘沙門天
の御堂に籠
って、謀反
の事ばかりをお祈り申されていた。 |
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『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ
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