〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2013/02/07 (木) うし) わか) ) ぶね) まうで) の 事 (二)

四方よも草木そうもく をば平家へいけ一類いちるい となぞらへ、大木たいぼく の二本ありけるを、一本を清盛きよもり と名づけ、一本をば重盛しげもり と名づけ、太刀たち を抜いて散々さんざん り、ふところより、毬打ぎつちやうたまやう なる物を二つ取り出し、木の枝にかけて、一つをば清盛が首、一つは重盛が首とて懸けられけり。かくて暁にもなりしかば、忍びて帰り、我がぼうきぬ 引きかづき し給へり。人これを知らず。
和泉いづみ と申す法師、御介錯かいしやく 参らせけるが、この御ありさま只事ただごと にはあらじと思ひて、目をも放ち奉らず。ある夜の夜半に御身にそふ影のごとくして行きける。ある草むらの蔭に忍び見ければ、かやうに振舞ふるま ひ給ふあひだ 、急ぎ鞍馬へ帰りて、東光坊とうくわうぼう にこのよしを語りければ、阿闍梨あじゃり これを聞き給ひて、良智坊の阿闍梨に告げ、今日衆徒しゆとり に触れ奉りて、 「牛若殿うしわかどの の御ぐし り奉れ」 とぞいはれける。

牛若は、四方の草木を平家の一門に見立て、中にも大木が二本あったうち、その一本を清盛と名づけて、他の一本を重盛と名づけて、太刀を抜いてはげしく斬りつけ、懐中から毬打ぎっちょう の玉のようなものを二つ取り出し、それを木の枝にかけ、一つを清盛の首、もう一つを重盛の首といって晒者さらしもの にした。こうして明け方になると、こっそりと帰り、自分の宿所で夜具をかぶっておやすみになった。人々は、このことのに気づかなかった。
だが、和泉いずみ という僧で、牛若の身のまわりのお世話をしていた者が、そのご様子がふつうでないと気づき、内々注意をしていた。ある夜の真夜中に、和泉坊は、牛若の身につきまとう影のようにその後をつけて行った。そしてある草むらの蔭に身をひそめて様子をうかがってみると、牛若がこのような振舞いをなさるので、すっかり驚き、急いで鞍馬へ引き返して東光坊にそのことを語った。阿闍梨あじゃり (東光坊) はこれを聞かれ、良智坊の阿闍梨に知らせて、その日寺中の衆徒たちにもお触れになり、 「牛若殿のおぐし をお り申せ」 とおっしゃった。

良智坊この事を聞き給ひて、「おさな き人もやう にこそよれ。学問がくもん と申し、容顔ようがん 世に越えておはすれば、今年こんねん受戒じゆかい はいたはしくこそ思ひ参らせ候へ。明年の春のころ、 り奉り給へ」 とぞ申されける。 「誰も御名残なごり はさこそ思ひ参らせ候へども、かやうに御心不定ふぢやう になりて御わたり候へば、わがため 、御身の為しか るべしとも覚えず。ただ寄りて り奉れ」 とのたま ひけれども、牛若殿、 「なに ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものを」 と、刀のつか に手うち掛けておはしましければ、左右さう なく寄りて剃るべしとも見えず。

良智坊はこの事をお聞きになって、 「幼い人の髪を剃るのも、その事情いかんによります。牛若殿は学問といい、また顔かたちといい人並み以上でおいでですから、今年受戒じゅかい させて僧侶にしてしまうことは、かわいそうに思われます。明年の春の頃に、お剃りなさいませ」 といわれた。けれども東光坊は、 「だれ でも、僧形そうぎょう にする名残なごり しさは当然のこととは思うが、このように牛若殿の御心が動揺するようにおなりになるうえは、わが寺のた為にも、牛若殿ご自身に為にも、よいこととは思われぬ。どうしても近づいてお剃りいたせ」 とおっしゃった。しかし牛若殿が、 「たとい何者でも、近づいて髪を剃ろうとする者は、容赦なく突いてやるぞ」 と、刀のつか に手をかけて身構えていらっしゃるので、容易に近寄って剃ることが出来ようとも思われなかった。

覚日坊かくにちぼう律師りつし 申されけるは、 「これは諸人の談義所だんぎしよ にて候ふあひだ 、静かならぬにこそ、学問にも御心入れらね候はね。あれはかたは らにて候へば、御心静かに今年ばかりは、身が候ふところにて御学問がくもん 候へかし」 と申されければ、東光坊とうくわうぼう も、さすがにいたはしくや思はれけん、 「さらば」 とて、覚日坊かくにちばう へ奉り給ひけり。名をさへ変へられて、遮那しやな わう 殿とぞ申しける。それよりのち は、貴船きぶね物詣ものまうで ではとど まりけり。日々に多門たもん入堂にふだう し、謀反むほん の事をのみ祈られけり。
それを見て、覚日坊の律師がこう口添えをなさった。 「ここは多くの人が集まる談義所ですので、騒々しいために、牛若殿も学問に身がおはいりにならないのでございましょう。あちらは山はずれですから、御心落着けて、今年いっぱいは私のいる所でご学問なさいませ」 と仰せになったので、東光坊もさすがにかわいそうに思われたのだろう。 「それならば」 といって、牛若を覚日坊へお預けになった。牛若はその名前まで変えられ、以後遮那王しゃなおう 殿どの と呼ばれる事になった。
それから後は、牛若の貴船神社への参詣も んだ。しかし、毎日本尊の毘沙門天びしゃもんてん の御堂にこも って、謀反むほん の事ばかりをお祈り申されていた。
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ