それよりして、学問の心をば跡形
なく忘れはてて、明暮
は謀反 の事をのみぞ嗜
み思召 しける。 謀反をする程ならな、馳
せひき、早業 知らでは叶
ふまじ。まづは早業 をし習はんとて、東光坊のもとは諸人寄合所
なり。如何 にも叶ふまじ。鞍馬
の奥に僧正 が谷
といふ所あり。むかしよりして如何
なる人が崇 め奉りけん、貴船の明神とて、霊験殊勝
にわたらせ給ふ。さればむかしは知恵深き上人
もおこなひ給ひけり。鈴の声もおこただず、まさしき神主
もありければ、御神楽
の鼓 の音も退転
なく、巫 が振
鳴 らす鈴
の音 に眼
をさまし、霊験あらたにわたらせ給ひしかども、世末代
になりぬれば、仏 の方便
、神の験徳 も衰
へさせ給ひて、人住み荒し、偏
へに天狗 の住家
と成りて、夕日 西に傾
けば、物怪 をめきさけぶ。さればおのづから参り寄る人をも取りなやます間
、参籠 する人なかりけり。 されども牛若殿
かかる所のあるよしを聞きて、昼は学問
に忠 をいたす体
にもてなし、夜になれば、日ごろは一所
にてともかくもなり参らせんと申しける衆徒
にも知らせず、別当 の御護
りに参らせたる敷妙 といふ腹巻
に、黄金 作
りの太刀 帯
きて、ただ一人貴船の神社へ参り給ひ、祈念
申し給ひけるは、 「南無
大慈悲 の明神
、八幡 大菩薩
」 と掌 を会はせて、
「源氏 を護
らせ給へ。宿願 まことに成就せば、玉
の御宝殿 を造り、千町
の神領 を寄進
し奉らん」 と祈誓 して、念誦
はてければ、正面より未申
へ向かひ出で給ふ。 |