〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2013/02/07 (木) うし わか くら り の 事

常盤、子供の成人するに従ひて、男になしては中々心ぐるし、初めて人に従はせんもよしなし。習はねば、殿上てんじやう にも交はるべくもなし、ただ法師になして、阿弥陀経あみだきやう の一くわん をも読ませたらば、 き人の菩提ぼだいとぶら ひなんと思ひて、鞍馬くらま の別当東光坊とうくわうぼう阿闍梨あじやり は、義朝よしとも の祈りの師なりしかば、使ひをつか わして申しけるは、 「義朝の末の子、牛若と申す幼き者は、知召しろしめ し候ふやうに、平家の世ざかりにて候ふに、女の身として持ちたるも、心苦しく候。鞍馬に参らせて候はば、たけ くともおだしき心もつき、文の一くわん を読ませ、御きやう の一字も教へ給ひ候へ」 と申されけれな、東光坊の阿闍梨、返事申され候ひけるは、 「 頭殿かうのとの君達きんだち にてわたらせ給ひ候ふなるこそ、ことによろこびて入り候へ」 とて、山科やましな にいそぎ御迎へに人を参らせたりければ、七歳と申しける二月のはじめ、鞍馬へとぞのぼせける。
そののち は、昼は終日ひめもす に師の御坊の御前にて経を読み、ふみ を習ひ、白日はくじつ 西に傾き、夜深更しんかう にふけゆきけれども、仏の御燈みあかし の消えざるをともに、物を積む。五更ごかう の天にはなれども、朝もいひ もすすまで、学問に心をのみぞ尽くしける。

常盤は、子供が成長するにつれて、元服させてはかえって心配だ。初めから人の家来にさせてしまうのも、いわれのなおことだ。とはいっても、経験がないのだから、公卿くげ たちの中に立ち交じるということもできるはずがない。この上は、ただ僧侶にして、阿弥陀経あみだきょう の一巻でも読ませたならば、亡き義朝の菩提ぼだい を弔うことにもなるだろうと思って、鞍馬くらま 寺の別当の東光坊の阿闍梨あじゃり が、義朝が祈祷きとう を頼んでいた師僧でもあったので、使いをやって頼んだ。 「義朝の末の子の牛若という幼い者は、ご存じのように、いま平家の全盛の世でございますので、女の身として身近に置いておきますのも、気がかりに存じます。鞍馬くらま 寺に参らせましたならば、たとい乱暴でも穏やかな気持になりましょう。どうか書物の一冊も読ませ、お経の一字でもお教えください」 と申されたところ、東光坊の阿闍梨あじゃり が返事申されるには、 「亡き左馬頭殿さまのこうのとの のお子さまであらせられるということは、格別にうれ しく存じます」 といって、山科に急いでお迎えをよこしたので、牛若が七歳という年の二月の初めに、鞍馬へ登らせた。
その後は、日中は終日師の東光坊の御前で経を読んだり、書物を勉学したりし、太陽が西に傾いて、夜がとっぷりとふけても、仏前のお燈明が消えないまま、一緒に読書を続けた。そうして、明け方の四時頃の空になっても、朝も夕方も区別なく、ただ学問にばかり熱中した。

東光坊も、山・三井寺にも、これほどのちご あるべしとおぼえず。学問のせい と申し、心ざま、眉目みめ容顔ようがん たらいたり。良智坊れうちぼう の阿闍梨、覚日坊かくにちぼう律師りつし も、 「かくて廿歳はたち ばかりまで学問し給はば、鞍馬の東光坊より後、仏法のたね をつぎ、多門たもん の御宝にもなり給はんずる人」 とぞ申しける。母もこれを聞きて、 「牛若学問の精よくふらんこと、よろこび入りて候。つねに里へくだ らんと申せばとて、下させ給ひ候な。いかに学問のせい よくよも、里につねにありなんとしつれば、心も不用ふよう になり、学問も怠り候ひなんず。恋しく見たきと申し候はん時は、わざと人をたま はり候へ。わらはそれまで参りて、見もし見え候はん」 とぞ申しける。 「さなしとてもちご を里へくだ すこと、おぼろげならぬこと」 とて、一年に一度、二年に一度もくだ さず。
かかる学問の精いみじき人の、いかなる天魔てんま のすすめにてやありつらん、十五と申す秋の頃より、学問の心もてほか に変はりけり。
東光坊も、比叡山延暦寺や三井寺にも、これほどの稚児ちご がいるとは考えられなかった。学問への精進ぶりといい、また性質、器量、容貌ようぼう といい不足はない。良智坊の阿闍利や、覚日坊の律師も、 「こうして二十歳まで学問をお続けになったら、鞍馬の東光坊より後、その仏法の教えを受け継いで、御本尊の多門天たもんてん の御宝のように、人々にあがめられる人におなりになる人だ」 と言った。母の常盤も、そのうわさ を伝え聞いて、 「牛若が学問によく精を入れているということは、たいへん嬉しゅう存じます。いつも里へ下りたいと申しましても、どうか下山させてはくださいますな。どんなに牛若が学問に精を出しましても、里にいつもいたいなどと考えれば、心も粗暴になって、学問も怠けるようになりましょう。もし母が恋しく いたいと申しました時は、特別にお使いをおつかわしください。私がそちらまで参上して、牛若を見もし、また って顔を見せてやりましょう」 と言った。寺でも、 「仰せられるまでもなく、稚児を里へ下すということなど、容易ならぬことです」 と言って、一年に一度か、二年に一度しか下山させなかった。
しかし、このように学問に精を出していた牛若が、いったいどんな悪魔のすすめによったのであろうか、十五歳という年の秋の頃から、学問に励む心が、意外な事に、はたとかわってしまったのである。
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ