〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/08/01 (土) べん けい よし つねくん しんけい やく 申す事 (六)

二人はやがて舞台ぶたい へひらて うてぞ戦ひ給ふ。始めは人も ぢて寄らざりけるが、のち には面白おもしろ さに行道ぎょうどう をするよう に、つゐてめぐりてこれを見る。
よそ の人言ひけるは、 「そもそも稚児ちご まさ り、法師が勝りか」 「いや稚児ちご こそ勝りよ。法師ほうしもの にてもなきぞ、はや よわ りて見ゆるぞ」
と申しければ、弁慶これを聞きて、
「さてはや 我は下手したて になるござんなれ」 と心細く思ひける。
御曹司も思い切りて り給ふ。弁慶も思ひ切りてぞ打ち合ひける。弁慶打ちはず す所を、御曹司はし かりて斬り給へば、弁慶が弓手のわきした に太刀の切先きっさき を打ち込まれて、ひるむところ を、太刀のむね にて、散々さんざん に打つ。
二人はそのうち、清水寺の舞台へひらりと飛び下りて戦われる。始めのうちは人々も恐れて近寄らなかったが、後になるとその面白さに、ちょうど僧侶がお練 (ネリ) でもするように、二人の後にくっついてまわってこれを見物する。
他の人々は、こう噂をしあった。
「いったい稚児が優勢か、法師の方が優勢か、どっちだろう」
「いや稚児の方が優勢だぞ、法師は物の数でもないぞ、もう弱って見えるぞ」
と言ったので、弁慶はこれを聞いて、
「さては、もう俺は押され気味なんだなあ」 と心細く思った。
御曹司も思い切ってお斬りになる。弁慶も思い切って打ち合った。そのうち、弁慶が打ち損じた所を、御曹司がつけ入って駆け寄ってお斬りになると、弁慶は左の脇の下に太刀の切っ先を打ち込まれ、思わず気おくれしたところを、太刀の背でしたたかに打ちすえる。
東枕に打ち伏せて、上に上り居て、押へつつ、 「さて従ふや否や」 と仰せられければ、 「これも前世の事にて候ひつらん。さらば従ひ参らせ候はん」 と申しければ、着たる腹巻を御曹司重ねて着給ひ、二振の太刀を取り持ちて、弁慶を先立てて、その夜の内に山科へ具しておはしまして、傷を癒して、その後連れて京へおはして、平家を狙ひけり。
そして東向きに弁慶を打ち倒して、その上にまたがって押さえつけながら、 「さあ降参するか、どうだ」 おしゃると、弁解は 「こうして組み伏せられるのも、前世からの約束事でござろう。それでは降参仕ろう」 といったので、弁慶が着ていた腹巻を取って御曹司はこれを重ねて着なさり、二振の太刀を奪って手に持ち、弁慶を先に立てて、その夜のうちに山科へ連れて戻られ、傷の手当をし、その後弁慶を供に連れて京へ出かけられては、平家を狙っていた。
その時見参げざん に入り始めてより、こころざし また二心なく、身にかげごと くして、平家を三年みとせ に攻め落とし給ひしにも、度々たびたび高名こうみょうきわ めて、奥州衣川ころもがわ最期さいご合戦かっせん まで御とも して、つい には討死うちじに したりし武蔵坊むさしぼう 弁慶これなり。
この時引見して家来として以来、二度と異心を挟むことなく。あたかも常に身につき従っている影のように御曹司の身辺を離れず、源氏が平家を三年の間に攻め落とされた際にも、度々武功を立て、奥州の衣川での最後の合戦の時までお供をして、ついに討死を遂げた武蔵坊弁慶というのは、この法師の事だ。
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ