参り人えひやつぎもはたと静まりて、行
ひ人の鈴
の声
も留
めて、これを聴聞
しけり。半時世間澄
み渡
りて、尊
さ心も及ばず。
暫
くこれにて立ち寄り、 「知人のあるに見参
して帰らん」 と仰せられければ、弁慶、 「現在目の前におはする時だにも、手に堪
らぬ人の、何時
をか待ち奉
るべき。御帰り候へ」 とて、御手を取りて引き立てて、南面の扉
のもとに行きて申しけるは、
「持ち給へる太刀の真実欲
しく候ふに、それ賜
び候へ」 と申しければ、
「これは重代の太刀
にて叶
ふまじ」
「左候はば、いざさせ給へ。武芸
をして勝負
に就
いて賜ひ候はん」 とぞ申しける。
「それならば参り会うべし」 と宣
へば、弁慶やがて太刀を抜く。
御曹司も抜き合はせて散々に打ち合ふ。人これを見て、
「こは如何
に。此処
なる御坊のこれ程
分内
も狭
き所にて、しかも幼
き人の戯
れは何事
ぞ。その太刀
差
し給
へ」 と雖
も、耳
にも聞き入れず斬
り合
ふ。
御曹司も上なる衣
を脱いで投げ捨て給へば、下
に直垂
に腹巻
をぞ着給へる。
「この人も只人
にはおはせざりけり」 とて、人目
を澄
ます。女
や尼
・童
は、周章
ふためき、縁
より落つる者もあり。御堂
の戸を立て、入れじとする者もあり。騒動
にてぞありける。 |
参詣人たちの雑踏のざわめきもぴったりと静まり、修行者たちも鈴の音を止めて、人々は皆この二人の読経に聞き入った。ちょっとの間、世間も静まりかえって、その尊さは想像も絶するほどであった。
しばらくその場に立ち寄った後、御曹司は、 「知り合いがいるので、逢って帰ろう」 と仰せになると、弁慶は、
「現在目の前においでの時ですらも、手に負えない人を、またいつお待ち申すことができよう。このままお帰りあれ」
といって、御曹司の手を引っぱって、南向きの扉のもとに行ってこう言った。
「お持ちになっている太刀がどうしても欲しゅうござるので、それをお渡しなされ」 と言うと、
「これは先祖伝来の太刀で、それは出来ぬ」
「さようでござれば、さあ来られよ。武芸をやってその勝負によって頂戴致そう」 という。
「それならば、行って相手になろう」 とおっしゃると、弁慶はすぐ太刀を抜く。
御曹司も抜き合わせて、はげしく打ち合う。人々はこれを見て、
「これはどうした事よ。ここのお坊さんが、こんな場所も狭いところで、しかも幼い稚児と戯れるとは何事よ。その太刀を腰に納めなされ」
といったが、弁慶は耳にも聞き入れず、斬り合った。
御曹司も上に羽織っていた被衣 (カズキ) を脱いで、お投げ捨てになると、下には直垂に腹巻を着ておいでになる。
「この人も普通の人ではなかった」 といって、人々はその姿に目をみはった。
女や尼僧や子供たちは、あわて騒いで、縁側から落ちる者もあれば、御堂の扉を閉めて二人を入れまいとする者もあった。大騒ぎであった。
|
|
『義 経 記』 校注・訳者:梶原
正昭 発行所:小学館 ヨ リ |