その夜は御曹司
、清水
に通夜
し給ふ。弁慶これをば知らず、太刀に心を懸けて、跡目
につきてぞ参りける。清水の正面
に参りて、御堂の内を拝み奉
れば、人の勤めの声はとりどりなりと申せども、殊
に上面の中
の格子
の際
に、法華経の一の巻の始めを尊
く読み給ふ声を聞きて、弁慶思ひけるは、
「あら不思議やな、この経読みたる声はありつる男の 『憎
い奴
』 と言ひつる声にさも似たるものかな。寄りて思はばや」
と思ひて、持ちたる長刀をば上面の長押
の上に差し上げて、帯
いたる太刀
ばかり持ちて、大勢の居
たる中を、
「御堂の役人
にてふぞ、通され候へ」 とて、人の肩
をも嫌はず、押さえて通りけり。
御曹司の御経
遊ばして居給へる後
に、踏
みはだかりて立ちたりけり。御燈火
の明
りより、人これを見て、 「あらいかめしの法師
の丈
の高さや」 とぞ怖
ぢ合
ひける。 |
その夜は、御曹司は清水寺で通夜をなさった。弁慶は義経のその企みを知らず、太刀に心ひかれて、跡について行った。清水寺の正面に行って、御堂の内を拝み申し上げると、人々の読経の声はとりどりでるとはいえ、とくに表の中央の格子戸のすぐ側で、法華経の第一巻の初めの方を尊げにお読みになっている声を聞いて、弁慶は、
「ああ不思議だなあ、このお経を読んでいる声は、先ほどの男が 『憎い奴だ』 といった声に、実によく似ている事よ。近寄ってみよう」
と思い、手に持っていた長刀を正面の長押の上にのせて、腰に帯びた太刀だけを持ち、大勢の人が坐っている中を、
「御堂の役人でござるぞ、お通し下され」 といって、人の肩も頓着せずに押さえて通った。そして、御曹司がお経を読んでいらっしゃる背後に、足を広げて踏ん張って立った。お燈明の明かりで、人々はこの様子を見て、
「ああ恐ろしい法師の背丈の何と高いことよ」 と互いに恐れ合った。 |
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御曹司後をきと見給ひたれば、立ちかかりてぞありける。何
としてこれまで知りて来たるらん。御曹司は見知り給ひたれども、弁慶見知り奉
らず。只今
までは男
にておはしつるが、女房
装束
にて、衣
うち被
て居給ひたりければ、武蔵坊
思
ひ煩
ひてぞありける。中々是非
なく推参
せばやと思ひて、太刀の尻鞘
にて、脇の下をしたたかに突き動かして、
「稚児
か女房か、これも参り人にて候ふぞ。あなたへ寄らせ給ひ候へ」
と申しけれども、返事もせず。弁慶、さればこそ只者
にてはあらず。ありつる人ぞと思ひて、またしたたかにぞ突いたりけり。 |
御曹司が後をきっと振り返ってご覧になると、弁慶がそこにかぶさるように立っている。どのようにしてここまで知ってつけて来たのだろう。御曹司の方は弁慶を見知っていらっしゃったが、弁慶の方は御曹司をまだ見つけ申し上げていない。最前までは男の姿でいらしたが、今は女房の装束で被衣
(カズキ) をかぶっておいでなので、武蔵坊は思案に暮れていた。いっそ強引にこちらからぶつかってみようと思って、太刀の尻鞘
(シリザヤ) で脇の下を強く突き動かして、
「稚児か女房か。こちらも参詣人でござるぞ、あちらへお寄りなされ」
と言ったが、御曹司は返事もしない。弁慶は案の定普通の人ではない。先刻の人だと思って、また力いっぱい突いた。
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『義 経 記』 校注・訳者:梶原
正昭 発行所:小学館 ヨ リ |