〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/31 (金) べん けい よし つねくん しんけい やく 申す事 (二)

御曹司おんぞうし ともすれば、いぶせく思はれければ、坂の上を見上げ給へば、かの法師ほうし こそ昨日きのう には引替ひきか へて、腹巻はらまき 着て、おお 太刀たち き、長刀なぎなた つえ に突きて待ち懸けたり。
御曹司見給ひて、 「曲者くせもの かな。また今宵こよい もこれにありけるや」 と思ひ給ひて、少しも退しりぞ かで、門を してのぼ り給へば、 弁慶、 「只今ただいま 参り給ふ人は、昨日きのう の夜天神にて見参げざん に入りて候ひし御こと にや」 と申しければ、御曹司、 「さる事もや」 とのたま へば、 「さて持ち給へる太刀をば び候ふまじきか」 とぞ申しける。
御曹司は、ややもすると鬱陶 (ウットウ) しい気がするので、ふと坂の上を見上げなさると、例の法師が昨日とはうって変わって、腹巻を着て大太刀を身に帯び、長刀を杖に突いて待ち構えている。御曹司はご覧になって、 「曲者よ、また今夜もここにいたな」 とお思いになって、少しも後に退かずに、門を指して坂を上って行かれると、弁慶が、 「只今おいでの人は、昨日の夜天神でお目にかかったお方か」 といったので、御曹司が 「そんな事もあったかな」 とおっしゃると、 「さて、お持ちになっている太刀を頂戴できまいか」 という。
御曹司、 「幾度いくたび もただは取らすまじ。 しくば寄りて取れ」 と宣へば、 「何時いつ強言葉こわごとば 変はらざりけるや」 とて、長刀打振り くだ りにおめ いて かる。御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。
弁慶がおお 長刀なぎなた を打ち流したるうで の上にゆらりとぞ飛び越え給ひける。弁慶手並てな みのほど は見しかば、 「あはや」 ときも を消す。 「さもあれ、手にもたま らぬ人かな」 と思ひけり。
御曹司が 「何度言ってもただではやれぬ、欲しければ近寄って取れ」 と仰せになると、 「いつも強がりは変らぬな」 といって、弁慶は長刀を振り回して、坂の上から真っ直ぐに駆け下りざまに、喚きながら斬りかかる。御曹司も太刀を抜き合わせて立ち向かわれる。
そして、弁慶が大長刀を空振りにし宙を斬ったその腕の上を、ゆらりとお飛び越えになった。弁慶は、相手の腕前の程がわかったので、 「ああっ」 と仰天する。 「それにしても、手負えない人だなあ」 と思った。
御曹司、 「夜すがらかくて遊びたくあれども、観音かんのん宿願しゅくがん あり」 とて、 せ給ひぬ。
弁慶独言ひとりごと に、 「手に取りたる物をうしな ひたる心地ここち する」 とぞ申しける。
御曹司も、 「なに ともあれ、彼奴きやつ の者かな。あはれあかつき まであれかし。彼奴きやつ が持ちたる太刀、長刀打ち落して、薄手うすで ほせて生捕いけど りにして、ひとある くは徒然つれづれ なるに、相伝そうでん して召使めしつか はばや」 とぞ思はれける。
御曹司は、 「一晩中こうして遊んでいたくはあるが、観音に年来の願いがあるから」 と言って、姿を消してしまわれた。
弁慶は、独言に 「まるで手に取った物を失ったような気がする」 と呟いた。
御曹司の方も、、 「何はともあれ、あいつは変化の者よ。ああ、明け方までいればよい。あいつの持っている太刀や長刀を打ち落として、軽傷を負わせて生捕りにし、独りで歩くのも退屈だから代々の家来にして召し使ってやろう」 と、お思いになった。