御曹司
ともすれば、いぶせく思はれければ、坂の上を見上げ給へば、かの法師
こそ昨日
には引替
へて、腹巻
着て、大
太刀
帯
き、長刀
杖
に突きて待ち懸けたり。
御曹司見給ひて、 「曲者
かな。また今宵
もこれにありけるや」 と思ひ給ひて、少しも退
かで、門を指
して上
り給へば、 弁慶、 「只今
参り給ふ人は、昨日
の夜天神にて見参
に入りて候ひし御事
にや」 と申しければ、御曹司、 「さる事もや」 と宣
へば、 「さて持ち給へる太刀をば賜
び候ふまじきか」 とぞ申しける。 |
御曹司は、ややもすると鬱陶
(ウットウ) しい気がするので、ふと坂の上を見上げなさると、例の法師が昨日とはうって変わって、腹巻を着て大太刀を身に帯び、長刀を杖に突いて待ち構えている。御曹司はご覧になって、
「曲者よ、また今夜もここにいたな」 とお思いになって、少しも後に退かずに、門を指して坂を上って行かれると、弁慶が、
「只今おいでの人は、昨日の夜天神でお目にかかったお方か」 といったので、御曹司が 「そんな事もあったかな」
とおっしゃると、 「さて、お持ちになっている太刀を頂戴できまいか」 という。 |
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御曹司、 「幾度
もただは取らすまじ。欲
しくば寄りて取れ」 と宣へば、 「何時
も強言葉
変はらざりけるや」 とて、長刀打振り真
下
りに喚
いて懸
かる。御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。
弁慶が大
長刀
を打ち流したる腕
の上にゆらりとぞ飛び越え給ひける。弁慶手並
みの程
は見しかば、 「あはや」 と胆
を消す。 「さもあれ、手にも堪
らぬ人かな」 と思ひけり。 |
御曹司が 「何度言ってもただではやれぬ、欲しければ近寄って取れ」
と仰せになると、 「いつも強がりは変らぬな」 といって、弁慶は長刀を振り回して、坂の上から真っ直ぐに駆け下りざまに、喚きながら斬りかかる。御曹司も太刀を抜き合わせて立ち向かわれる。
そして、弁慶が大長刀を空振りにし宙を斬ったその腕の上を、ゆらりとお飛び越えになった。弁慶は、相手の腕前の程がわかったので、
「ああっ」 と仰天する。 「それにしても、手負えない人だなあ」 と思った。 |
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御曹司、 「夜すがらかくて遊びたくあれども、観音
に宿願
あり」 とて、打
ち失
せ給ひぬ。
弁慶独言
に、 「手に取りたる物を失
ひたる心地
する」 とぞ申しける。
御曹司も、 「何
ともあれ、彼奴
は怪
の者かな。あはれ暁
まであれかし。彼奴
が持ちたる太刀、長刀打ち落して、薄手
負
ほせて生捕
りにして、独
り歩
くは徒然
なるに、相伝
して召使
はばや」 とぞ思はれける。 |
御曹司は、 「一晩中こうして遊んでいたくはあるが、観音に年来の願いがあるから」
と言って、姿を消してしまわれた。
弁慶は、独言に 「まるで手に取った物を失ったような気がする」 と呟いた。
御曹司の方も、、 「何はともあれ、あいつは変化の者よ。ああ、明け方までいればよい。あいつの持っている太刀や長刀を打ち落として、軽傷を負わせて生捕りにし、独りで歩くのも退屈だから代々の家来にして召し使ってやろう」
と、お思いになった。 |
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