静
これを見て、 「我禄
を取らん為
に舞
ひたらばこそ、判官殿
の御祈りに為
にこそ舞ひたれ」。長持ちをば一枝
も残さず若宮
の修理
の為に参らせけり。小袖も直垂も一つ散らさず、皆
我が君の孝養
の為に大御堂
へ参らする。
やがて掘藤次
が館
へ帰り、翌れば、鎌倉殿の暇
を申しければ、心ある侍共
、掘藤次が館
へ行き、様々
に慰めけり。鎌倉殿より、百物
百をぞ給はりける。やがて親家
承りて、五十余騎の勢
にて都まで送りけり。 |
静はこの有様を見て、 「私は引き出物を拝領しようと思って舞ったわけでは毛頭ありません。判官殿に祈願のために舞ったのです」
といって、長持ちを一つも残さず若宮修理のために奉納した。
そのまますぐ掘藤次邸に帰り、翌日になると鎌倉殿にお暇乞いをしてので、思いやりある侍たちは掘藤次邸へ行き、色々と静を慰めた。鎌倉殿からは様々な物を数多くお下げ渡しになった。すぐさま親家が命を受け、五十余騎の軍勢で都までお送りした。
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静
若君
の名残
深かりければ、日すがら、千僧供養してぞ上
りける。北白川
の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず、憂
かりし事の忘れ難
ければ、訪
ひ来る人も物憂
しとて、ただ思いひ入りてぞありける。母
の禅師
も慰め兼
ねて、いとど思ひぞ深かりける。 |
静は亡き若君を惜しむ思いが深かったので、道中で千僧供養をしながら都に上った。北白川のわが家に帰りはしたが、呆然として満足に物も見れず、鎌倉での辛かった出来事が忘れられず、人の来訪も煩わしいといって、一途に考え込んでばかりいた。母の禅師も慰める事が出来ず、気遣いが益々深まるばかりであった。 |
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明暮
は持仏堂
に引籠
り、経
を読み、仏
の御名を称
へてありけるが、かかる憂世
にながらへて何
かせんとや思ひけん、母にも知らせず、髪
を切りて剃
らせけり。天王寺の麓
に草の庵
を結び、禅師
共
に行なひ澄
ましてぞありける。禅師の心の内
思ひやるこそ無慚
なれ。能
は日本一、形
は王城
に聞こえたり。心情
は人にも勝
れたり。惜しかるべき歳
ぞかし。十九にて様
を変
へ、次の年の秋の暮
には紫雲
棚曳
き、音楽
空
に聞こえて、往生
の素懐
を遂
げにけり。禅師も程
なく共に往生しけるとかや。 |
静は、朝晩持仏堂に籠って、お経を読み、仏の御名を唱えていたが、このような疎ましい世の中に生きながらえても何の意味もないと思ったのであろう、母にも打ち明けずに髪を切って頭を剃らせた。そして天王寺の麓に粗末な草庵を造って、禅師と一緒に仏道一途の生活を送っていた。
禅師の心中は想像するさえ痛ましい。芸の力は日本一、姿は都中に評判が高く、心情も他人と比べて勝れており、しかもまだ前途ある惜しい年齢であった。十九歳で出家し、翌年の秋の暮れには、紫の雲が天上に長く広がり、空中に音楽が聞こえて、阿弥陀如来の来迎の兆しがあらわれ、静は見事に往生の宿願を果たしたのであった。
禅師もまもなくその後を追い、一緒に浄土に往生したということである。
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