〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/25 (土) しずか 若 宮 八 幡 宮 へ 参 詣 の 事 (十九)

しずか これを見て、 「我ろく を取らんため ひたらばこそ、判官殿ほうがんどの の御祈りにため にこそ舞ひたれ」。長持ちをば一えだ も残さず若宮わかみや修理しゅうり の為に参らせけり。小袖も直垂も一つ散らさず、みな 我が君の孝養こうよう の為に大御堂おおみどう へ参らする。
やがて掘藤次ほりのとうじやかた へ帰り、翌れば、鎌倉殿のいとま を申しければ、心ある侍共さぶらひども 、掘藤次がやかた へ行き、様々さまざま に慰めけり。鎌倉殿より、百物やくぶつ 百をぞ給はりける。やがて親家ちかいえ 承りて、五十余騎のせい にて都まで送りけり。
静はこの有様を見て、 「私は引き出物を拝領しようと思って舞ったわけでは毛頭ありません。判官殿に祈願のために舞ったのです」 といって、長持ちを一つも残さず若宮修理のために奉納した。
そのまますぐ掘藤次邸に帰り、翌日になると鎌倉殿にお暇乞いをしてので、思いやりある侍たちは掘藤次邸へ行き、色々と静を慰めた。鎌倉殿からは様々な物を数多くお下げ渡しになった。すぐさま親家が命を受け、五十余騎の軍勢で都までお送りした。
しずか 若君わかぎみ名残なごり 深かりければ、日すがら、千僧供養せんそうくようしてぞのぼ りける。北白川きたしらかわ の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず、 かりし事の忘れがた ければ、 ひ来る人も物憂ものう しとて、ただ思いひ入りてぞありける。はは禅師ぜんじ も慰め ねて、いとど思ひぞ深かりける。
静は亡き若君を惜しむ思いが深かったので、道中で千僧供養をしながら都に上った。北白川のわが家に帰りはしたが、呆然として満足に物も見れず、鎌倉での辛かった出来事が忘れられず、人の来訪も煩わしいといって、一途に考え込んでばかりいた。母の禅師も慰める事が出来ず、気遣いが益々深まるばかりであった。
明暮あけくれ持仏堂じぶつどう引籠ひきこも り、きょう を読み、ほとけ の御名をとな へてありけるが、かかる憂世うきよ にながらへてなに かせんとや思ひけん、母にも知らせず、かみ を切りて らせけり。天王寺のふもと に草のいほり を結び、禅師ぜんじ とも に行なひ ましてぞありける。禅師の心のうち 思ひやるこそ無慚むざん なれ。のう は日本一、かたち王城おうじょう に聞こえたり。心情こころなさけ は人にもすぐ れたり。惜しかるべきとし ぞかし。十九にてさま へ、次の年の秋のくれ には紫雲しうん 棚曳たなび き、音楽おんがく そら に聞こえて、往生おうじょう素懐そかい げにけり。禅師もほど なく共に往生しけるとかや。

静は、朝晩持仏堂に籠って、お経を読み、仏の御名を唱えていたが、このような疎ましい世の中に生きながらえても何の意味もないと思ったのであろう、母にも打ち明けずに髪を切って頭を剃らせた。そして天王寺の麓に粗末な草庵を造って、禅師と一緒に仏道一途の生活を送っていた。
禅師の心中は想像するさえ痛ましい。芸の力は日本一、姿は都中に評判が高く、心情も他人と比べて勝れており、しかもまだ前途ある惜しい年齢であった。十九歳で出家し、翌年の秋の暮れには、紫の雲が天上に長く広がり、空中に音楽が聞こえて、阿弥陀如来の来迎の兆しがあらわれ、静は見事に往生の宿願を果たしたのであった。
禅師もまもなくその後を追い、一緒に浄土に往生したということである。