静
のその日は、白拍子
多く知りたれども、ことに心に染
むものなれば、しんむじやうの曲
という白拍子の上手なりければ、心も及ばぬ声色
にて、はたと上げてぞ歌ひける。上下 「あつ」 と感ずる声、雲に響くばかりなり。近くは聞きて感じけり。声も聞こえぬ上の山までもさこそあるらめとて感じける。 |
静はその日は、白拍子は沢山知ってはいたが、特に気に入ってもおり、しんむじょうの曲という白拍子が得意でもあったので、それを想像も出来ぬ見事な声音で朗々と声はりあげて歌った。貴賎上下の
「あつ 」 と感嘆する声が雲まで響くほどだった。近くの者は実際に聞いて感嘆した。声が聞こえぬ八幡宮の上の山の人までもさぞ見事だろうと想像して感嘆した。
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しんむじやうの曲
、半
らばかり数
へたりける所
に、祐経
心
なしやと思ひけん、水干
の袖を外
して、せめをぞ打ちたりける。
静
、 「君が代の」 と上
げたりければ、人々これを聞きて、 「情
なき祐経かな、今
一折
舞はせよかし」 とぞ申しける。詮
ずる所敵
の前
の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、
しづやしづ 賎
のをだまき 繰り返し 昔
を今
に なすよしもがな
吉野山
嶺
の白雪
踏
み分けて 入りにし人の 跡
ぞ恋しき
と歌ひければ、鎌倉殿
、御簾
をさつと下
ろし給ひけり。 |
しんむじょうの曲を半分ほど歌ったその時、祐経はその曲が無分別だと思ったのであろう、水干の袖を肩脱ぎして、最後のせめの急調子を打った。
静もそこで、 「君が代の」 と歌い納めたので、人々はこれを聞いて、 「情けない祐経よ。もう一差舞わせるようにしろ」
といった。
そこで静も、所詮は敵の前での舞であることよ。思っている事を歌ってやろうと思って、 |
(静よ静よと繰り返し私の名を呼んで下さったあの昔のように懐かしい判官様の時めく世に今一度したいものよ) |
(吉野山の峰の白雪を踏み分けながら山中深く入って行ってしまわれた、あのお方の跡が恋しく思われる) |
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と歌ったので、鎌倉殿は御簾をさっと下ろしてしまわれた。 |
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『義 経 記』 校注・訳者:梶原
正昭 発行所:小学館 ヨ リ |