〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/18 (土) しずか 若 宮 八 幡 宮 へ 参 詣 の 事 (九)

むかし の京は難波なんば の京とぞ申しける。いま の京はたいら の京となって、山城やましろ の国愛宕をたぎこおり に都を立てられしより此方このかた東海道とうかいどうはる かに下りて、由比野ゆいの足利あしかが よりひがし相模さがみくに 小坂おさかこおり由比ゆいうら 、ひづめの小林こばやし鶴岡つるおかふもと に、いま八幡はちまんいわ ひ奉る。鎌倉殿かまくらどの にも氏神なれば、判官殿どの のなどかまも り奉らざらむ。和光同塵わこうどうじん結縁けつえん の始め、八相成道はっそうじょうどう利物りもつ の終り、何事なにごと か御祈りの感応かんおう なからんや。

昔の都は、難波の京と申しました。今の都は、平安京という名になり、山城国の愛宕の郡に都をお建てになって以来、東海道をはるかに下って、由比野、足利から東、相模国小坂の郡、由比の浦、ひづめの小林と来て、鶴岡の麓に、今の八幡様をお祀り申し上げたのでございます。この神さまは、鎌倉殿にとっても氏神でございますから、ご一族の判官殿をどうしてお守り下さらない事がございましょう。“ 和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終わり ” と、摩訶止観の中にもあるように、何事によらずお祈りのしるしがない事がどうしてありましょうか。

当国とうこく 第一の無双ぶそう にて渡らせ給へば、ゆうべ には参籠さんろうともがら 門前いち をなす。あした には参詣さんけいともがら 肩をなら べてきびすつづ く。しか れば日中にっちゅう にはかな ひ候ふまじ。掘殿ほりどの の女房、若宮わかみや案内者あんないしゃ にて御坐おわしま す。わらわ もこのところ巨細こさい の者にて候へば、明日まだ をこめて御参詣さんけい 候ひて、思召おぼしめ す御宿願も げさせ御坐おわしま し、そのついで に御腕差かいなざし法楽ほうらく 参らせさせ給ひ候ひならば、鎌倉殿かまくらどの判官殿ほうがんどの と御仲もなお らせ御坐おわしま し候ひて、思召おぼしめ し候ふままなるべし。奥州に渡らせ給ひ候ふ判官殿も、聞召ここしめ し伝へさせ給ひては、わが御ため丹精たんせいいた し参らさせ給ふと聞召きこしめ してはうれ しとこそ思召おぼしめ し候はんずれ。たまたまかかるついで ならでは、いか でか候ふべき。理を げて、御参詣候へ。あま りに見奉りてより、いとど愚かならず思ひ参らせ候。せめての事に申し候ふなり。御参詣候はば、御供申し候はん」
とぞすか しける。
この国第一の並びなき神であらせられますから、夕方にはお籠 (コモ) りの人々が、門前に市が立ったように群集致します。また、朝は参詣の人々が肩を並べ、踵 (キビス) を接して続々と詰めかけて参ります。だから日中は無理でございましょう。掘殿の奥様が、若宮をよくご存知でございます。私もこの土地の消息に通じている者でございますから。明日まだ夜の明けぬうちにご参詣あそばされて、かねがね抱いておいでになったご願望をお果たしになり、そのついでにお腕差し・法楽を神前にご奉納申し上げなさいましたならば、鎌倉殿と判官殿とのお仲もお直りあそばされて、お思いになっている通りになりましょう。奥州にご滞在になっていらっしゃる判官殿も、これをお聞き伝えになれば、自分の為に真心をお尽くしになってくれていると耳にされ、嬉しい事だとお思いになる事でございましょう。たまたまこういうついででもなければ、どうしてこのような事ができましょう。どうか理屈抜きで、ご参詣なさいませ。あまりにお世話を申し上げてきたので、一層お親しみ深く存じ上げるようになりました。そこでせめてと思って申し上げるのです。ご参詣あそばしますなら、お供を致しましょう」
と、言葉巧みに言いくるめた。
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ