「昔
の京は難波
の京とぞ申しける。今
の京は平
の京となって、山城
の国愛宕
の郡
に都を立てられしより此方
、東海道
を遥
かに下りて、由比野
。足利
より東
、相模
の国
小坂
の郡
、由比
の浦
、ひづめの小林
、鶴岡
の麓
に、今
の八幡
を斎
ひ奉る。鎌倉殿
にも氏神なれば、判官殿
のなどか守
り奉らざらむ。和光同塵は結縁
の始め、八相成道は利物
の終り、何事
か御祈りの感応
なからんや。 |
昔の都は、難波の京と申しました。今の都は、平安京という名になり、山城国の愛宕の郡に都をお建てになって以来、東海道をはるかに下って、由比野、足利から東、相模国小坂の郡、由比の浦、ひづめの小林と来て、鶴岡の麓に、今の八幡様をお祀り申し上げたのでございます。この神さまは、鎌倉殿にとっても氏神でございますから、ご一族の判官殿をどうしてお守り下さらない事がございましょう。“
和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終わり ” と、摩訶止観の中にもあるように、何事によらずお祈りのしるしがない事がどうしてありましょうか。
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当国
第一の無双
にて渡らせ給へば、夕
には参籠
の輩
門前市
をなす。朝
には参詣
の輩
肩を並
べて踵
を続
く。然
れば日中
には叶
ひ候ふまじ。掘殿
の女房、若宮
の案内者
にて御坐
す。妾
もこのところ巨細
の者にて候へば、明日まだ夜
をこめて御参詣
候ひて、思召
す御宿願も遂
げさせ御坐
し、その次
に御腕差
、法楽
参らせさせ給ひ候ひならば、鎌倉殿
と判官殿
と御仲も直
らせ御坐
し候ひて、思召
し候ふままなるべし。奥州に渡らせ給ひ候ふ判官殿も、聞召
し伝へさせ給ひては、わが御為
に丹精
を致
し参らさせ給ふと聞召
しては嬉
しとこそ思召
し候はんずれ。たまたまかかる次
ならでは、争
でか候ふべき。理を枉
げて、御参詣候へ。余
りに見奉りてより、いとど愚かならず思ひ参らせ候。せめての事に申し候ふなり。御参詣候はば、御供申し候はん」
とぞ賺
しける。 |
この国第一の並びなき神であらせられますから、夕方にはお籠
(コモ) りの人々が、門前に市が立ったように群集致します。また、朝は参詣の人々が肩を並べ、踵
(キビス) を接して続々と詰めかけて参ります。だから日中は無理でございましょう。掘殿の奥様が、若宮をよくご存知でございます。私もこの土地の消息に通じている者でございますから。明日まだ夜の明けぬうちにご参詣あそばされて、かねがね抱いておいでになったご願望をお果たしになり、そのついでにお腕差し・法楽を神前にご奉納申し上げなさいましたならば、鎌倉殿と判官殿とのお仲もお直りあそばされて、お思いになっている通りになりましょう。奥州にご滞在になっていらっしゃる判官殿も、これをお聞き伝えになれば、自分の為に真心をお尽くしになってくれていると耳にされ、嬉しい事だとお思いになる事でございましょう。たまたまこういうついででもなければ、どうしてこのような事ができましょう。どうか理屈抜きで、ご参詣なさいませ。あまりにお世話を申し上げてきたので、一層お親しみ深く存じ上げるようになりました。そこでせめてと思って申し上げるのです。ご参詣あそばしますなら、お供を致しましょう」
と、言葉巧みに言いくるめた。 |
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『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ
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