春の朧
の空に雨降りて、殊更
世間
閑
なり。
「壁に立ち添ふ人も聞け、一日の饗宴
は、千歳
の命
延ぶなれば、我も歌ひ遊ばん」
とて、別れの白拍子
を数
へける。一音
文字
移り、心も言葉も及
ばれず、左衛門尉、掘藤次
、壁を隔ててこれを聞きて、
「あはれ、打任
せの座敷ならば、などか推参
せざるべき」
とて、心も空
に憧
るるばかりなり。 |
春のぼうっと霞んだ空に雨が降って、とりわけあたりは静まりかえっていた。
「もし壁に寄りかかって耳をそばだてている人がいたなら、お聞きあれ。一日の興味深い宴会は千年もの寿命を延ばすという事だから、さあ私も歌って楽しみましょう」
といって、静も別れの白拍子を歌った。一つ一つの声音 (コワネ)
、言葉の続き具合は、想像も絶し言葉にも尽くし難いほどであった。左衛門尉も掘藤次も、壁を隔ててこれを聞いて、
「ああ、これがありふれた座敷ならば、どうして押しかけて行かずにいられよう」
といって、気もそぞろに聞き惚れるばかりであった
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白拍子
過ぎければ、錦
の袋に入れたる琵琶
一面
、纐纈
の袋に入れたる琴
一張
、取出
して、琵琶をば其
駒
袋より取出
して、緒合
せして、左衛門の女房の前
に置く。琴をば催馬楽
取出
し、琴柱
立て、靜
が前にぞ置きたりける。管絃
過ぎければ、また左衛門
の妻心ある様
の物語
などせられつつ、今や言はまし今や言はましとぞ思ひける。 |
白拍子の曲が終ると、錦の袋に入れた琵琶を一面と、くくり染めの袋に入れた琴を一張取り出して、琵琶の方は其駒が袋から取り出し、音
(ネ) じめを合わせて左衛門の妻の前に置いた。琴の方は催馬楽が取り出して、琴柱を立てて静の前に置いた。演奏が終ると、また左衛門尉の妻は、風情ありげな物語などをなさりながら、今こそ言おう言おうと思っていた。 |
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『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ
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