〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/18 (土) しずか 若 宮 八 幡 宮 へ 参 詣 の 事 (八)

春のおぼろ の空に雨降りて、殊更ことさら 世間せけん しずか なり。
「壁に立ち添ふ人も聞け、一日の饗宴きょうえん は、千歳ちとせいのち 延ぶなれば、我も歌ひ遊ばん」
とて、別れの白拍子しらびょうしかぞ へける。一音いちおん 文字もじ 移り、心も言葉もおよ ばれず、左衛門尉さえもんのじょう掘藤次ほりのとうじ 、壁を隔ててこれを聞きて、
「あはれ、打任うちまか せの座敷ならば、などか推参すいさん せざるべき」
とて、心もそらあくが るるばかりなり。

春のぼうっと霞んだ空に雨が降って、とりわけあたりは静まりかえっていた。
「もし壁に寄りかかって耳をそばだてている人がいたなら、お聞きあれ。一日の興味深い宴会は千年もの寿命を延ばすという事だから、さあ私も歌って楽しみましょう」
といって、静も別れの白拍子を歌った。一つ一つの声音 (コワネ) 、言葉の続き具合は、想像も絶し言葉にも尽くし難いほどであった。左衛門尉も掘藤次も、壁を隔ててこれを聞いて、
「ああ、これがありふれた座敷ならば、どうして押しかけて行かずにいられよう」
といって、気もそぞろに聞き惚れるばかりであった

白拍子しらびょうし 過ぎければ、にしき の袋に入れたる琵琶びわ 一面いちめん纐纈こうけつ の袋に入れたること 一張いっちょう取出とりいだ して、琵琶をばその こま 袋より取出とりいだ して、緒合おあわ せして、左衛門の女房のまえ に置く。琴をば催馬楽さいばら 取出とりいだ し、琴柱ことぢ 立て、しずか が前にぞ置きたりける。管絃かんげん 過ぎければ、また左衛門さえもん の妻心あるさま物語ものがたり などせられつつ、今や言はまし今や言はましとぞ思ひける。
白拍子の曲が終ると、錦の袋に入れた琵琶を一面と、くくり染めの袋に入れた琴を一張取り出して、琵琶の方は其駒が袋から取り出し、音 (ネ) じめを合わせて左衛門の妻の前に置いた。琴の方は催馬楽が取り出して、琴柱を立てて静の前に置いた。演奏が終ると、また左衛門尉の妻は、風情ありげな物語などをなさりながら、今こそ言おう言おうと思っていた。
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ
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