〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/11 (土) しずか 若 宮 八 幡 宮 へ 参 詣 の 事 (二)

抑々そもそも 如何程いかほど の舞なれば、斯程かほど に人々ねん をば けらるるぞ」 と仰せられければ、
梶原かじわら 、「舞に於いては日本一の舞にて候」 とぞ申しける。
鎌倉殿、 「事々ことごと しや、何処いずく にて舞ひて、日本一とは申しけるぞ」。
梶原申しけるは、 「一年ひととせ 百日のひでり の候ひけるに、賀茂川かもがわ桂川かつらがわみな 切れて流れず、筒井つつい の水もあと えて、国土こくど の大事にて候ひけるに、時代じだい ひさ しき例文れいもん 引いて、やま三井寺みいでら東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ有験うげん 高僧こうそう 貴僧きそう 百人牒状ちょうじょう して、しでの池にて仁王経にんおうきょうこう じ奉らば、八大龍王りゅうおう知見納受ちけんのうじゅ れ給ふべしとて、百人の高僧こうそう 貴僧きそう 仁王経にんおうきょうこう ぜられしかども、そのしるし もなかりけり。

「一体どんな上手な舞なので、これほど人々が執心致すのか」 と鎌倉殿がおっしゃったので、梶原は、 「舞にかけては日本一でござる」 と言った。
鎌倉殿は、 「大袈裟な。どこで舞って日本一というのだ」。
梶原は答えて、 「百日間の日照りが続きました折、賀茂川も桂川もすっかり瀬がなくなって流れなくなり、井戸の水も涸れてしまって、国土が危機に瀕しましたところ、由緒の古い文書の例を引いて、比叡山、三井寺、東大寺、興福寺などの効験あらたかな高僧・貴僧が牒状を奉って、しでの池で仁王経をお読み申し上げたならば、八大龍王もこれをみそなわし、お受け入れ下さいますことでしょうということで、百人の高僧・貴僧が仁王経をお読みになったが、いっこうにその効き目もありませんでした。

また る人の に、『容顔ようがん 美麗びれい ならんずる白拍子しらびょうしを百人召して、いん 御幸ごこう なりて、しでの池にて舞はせられば龍神りゅうしん 納受のうじゅ し給はざるべきか』 とて、御幸ごこう ありて、百人の白拍子しらびょうしを召して舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、そのしるし もなかりしほど に、磯禅師いそのぜんじ申しけるは、 「九十九人が舞ひたるに、そのしるし はざらんに、しずか 一人舞ひたりとても、龍神りゅうじん 知見ちけん あるべきか。しか内侍所ないしどころに召されて、ろく 重き者にて候ふに」 と申したりけれども、 『とても人数にんずう なればただ 舞はせよ』 と仰せ下されければ、しずか 舞ひたりけるに、しんむじやうのきょく といふ白拍子しらびょうしなか らばかり舞ひたりしに、みこしのたけ愛宕あたご 山の方より黒き雲にわか に出で来て、洛中らくちゅう にかかると見えければ、八大龍神りゅうしん 鳴り渡りて、稲妻いなづま ひるめき、諸人の眼を驚かし、三日の洪水こうずい を出だし、国土こくど 安堵あんど なりしかば、さてこそしずか が舞に知見ちけん ありけりとて、日本一と宣旨せんじ を賜はりけるとは承り候ひしか」
と申したりければ、鎌倉殿これを聞召きこしめ されて、 「さては一番いちばん 見たし」 とぞ仰せられける。

また、ある人の提案に、 『容姿の美しい白拍子を百人呼び集め、院の御幸 (ゴコウ) を仰いで、しでの池において舞わせられましたならば、どうして龍神がお聞き届け下さらないことがございましょう』 とあったので、院の御幸をお願いし、百人の白拍子を呼んでお舞わせになった。ところが九十九人が舞ったのに、その効 (キキメ) がなかったため、磯禅師が進み出て 『九十九人が舞いましたのに、その (シルシ) がございませんところを、静一人が舞ったとしても、龍神がどうしてお聞き届け下さいましょうか。それの静は宮中の内侍所にお召しを受け、重い給与を頂戴しております者でございますのに』 と申し上げましたが、 『どっちにせい人数の内に選ばれているのだから、とにかく舞わせてみよ』 とご下命がありましたので、静が舞いましたところ、しんむじょうの曲という白拍子の半分ばかりを舞ったその時、みこしの岳、愛宕山の方から黒い雲が突然吹き出して来て、京都中に蔽いかぶさると見えた途端、八大龍神の雷鳴が響き渡って、稲妻が光り、大勢の人に驚いて目をみはらせ、三日間洪水のように雨を降らせて国土が無事に治まりました。そこで、これこそ静の舞に感銘してお聞き届け下さったのだといって、日本一との宣旨を拝領したと聞き及んでおります」
と、こういったので、鎌倉殿はこれをお聞きになり、 「それでは、一番見たいものだ」 とおっしゃった。

『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ