〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/02 (木) しずか 鎌 倉 へ 下 る 事 (五)

梶原かじわら はこの事を聞きて、つい立ちて御まえ に参りかしこ まりてゐたりければ、人々これを見て、
「あな心 や、また如何いか なる事を申さんずらん」 と耳をそばだ ててぞ聞ける。
しずか 御前ごぜん の事承り候。おさな き人こそ限り候はんずれ、はは 御前ごぜん をさへ失ひ参らせ給はん、その御つみ いか でかのが れさせ給ふべき。胎内たいない宿やど り十月を待つもなほ如何いか にぞやとぞん じ候へば、源太げんたやかた を御産所さんじょ と定めて、若君わかぎみ 姫君ひめぎみ左右さう を申すべし」
と申したりければ、御前おんまえ なる人々、そで を引きひざ を差し、
「この世の中は如何様いかさま 末代まつだい といひながら、徒事ただごと はあらじ。これほど梶原かじわら 人のため にによき事申したる事はなし」 とぞ申し合へりける。

梶原はこの言葉を聞くと、さっと席を立って頼朝の御前に行き畏まって坐ったので、 人々はこれを見て、
「ああ不愉快なことよ、またどのような事を言おうとするのか」 と耳を欹ててその言うのを聞いた。
「静御前の事、承りました。問題は幼児だけに限ることでございましょう。母御まで殺してしまわれたら、罪障をどうしても免れることがおできになりますまい。胎内に宿る十か月ここで待つのもどうかと存じますので、私の息子の源太の邸をお産所と決めて、お生まれになったのが若君か姫君か、その結果をご報告申し上げましょう」
という言葉であったので、御前にいた人々は袖を引き膝をつついて、
「この世の中はまさしく末の世とはいうものの、これはただ事ではない。これほどに梶原が他人の為によい事を言ったことはない」 と互いに言い合った。

しずかこれを聞き、
みやこ を出でし時よりして、梶原といふ名を聞くだにも心 かりしに、 して景時かげとき が宿所にありて、産の時、自然しぜん の事あらば、黄泉よみじさわり りともなりぬべし。あはれ同じくは、ほり殿との の承るならば如何いかが うれ しかりなん」
と、工藤くどう 左衛門さえもん して申したりければ、鎌倉殿の見参げんざん に入りたりければ、
ことわり なれば、やす き事なり」 と仰せられて、堀藤次ほりのとうじに返し ぶ。 「時にとりては親家ちかいえ面目めんぼく 」 とぞ思ひける。堀藤次ほりのとうじ急ぎやかた へ帰りて、妻女さいじょ に会ひて言ひけるは、
梶原かじわら すで に申し給ひて候ひつるに、しずか 御前ごぜん訴訟そしょう にて、親家ちかいえ に返し預かり参らせ候ひぬ。の奥州にて聞召きこしめ さるる所もあり。これにてよくよくいたわ り参らせよ」
とて、我はかたわ らに候ひて、やかた をば御産所さんじょ名付なづ けて、心ある女房にょうぼう たち 五六人付け奉りてぞもてなしける。
磯禅師いそのぜんじは都の仏神ほとけかみ にぞ祈り申しける。 「稲荷いなり祗園ぎおん賀茂かも春日かすが日吉山王ひよしさんおうしゃ八幡大菩薩はちまんだいぼさつしずか胎内たいない にある子を、たとひ男子なんし なりとも女子となして べ」 とぞ申しける。
静かがこの言葉を聞いて、
「都を出立した時以来、梶原という名前を聞くのさえ嫌でございましたのに、その上影時の宿所に預けられて、お産の時に万一の事でもありましたなら、成仏の妨げともばりましょう。ああ同じ事ならば、堀の殿様がそのご下命をお受け下さるなら、どんなにか嬉しい事でございましょう」
と 工藤左衛門を介して申し上げたので、鎌倉殿のお耳に入れたところ、
「道理であるから、たやすい事だ」 とおっしゃって、堀藤次にその身柄をお返し下さった。
「その場にとっては親家の名誉だ」 と堀藤次は思った。
堀藤次は急いで邸に帰り、妻に向かってこう言った。
「梶原がすでに申し出てお許しを頂いたのに、静御前の訴えで、この親家にお返し頂きお預かりする事になった。判官殿が奥州でお聞きになる事もある。この家で充分お世話申し上げよ」
といって、自分は脇の方にいて、邸をお産所と名付け、よく気のつく女房たちを五、六人おつけ申して大切に扱った。
磯禅師じゃ次の如く都の神や仏にお祈りした。
「伏見の稲荷、祗園社、賀茂神社、春日大社、日吉山王大社、八幡大菩薩よ、静の胎内にいる子を、たとい男子であってもどうか女子にして下さい」
『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ