〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/07/02 (木) しずか 鎌 倉 へ 下 る 事 (四)

鎌倉殿仰せられけるは、 「殿上人てんじょうびとには見せ奉らで、など九朗には見せけるぞ。そのうえ 天下てんか の敵になり参らせたる者にてあるに」 と仰せられければ、禅師ぜんじ 、 「しずか 十五のとし までは多くの人仰せられ候ひしかども、内々心も候はざりしかども、いん御幸ごこう召具めしぐ せられ参らせて、しでのいけ の雨の祈りの舞の時、判官ほうがん められ参らせて、堀川ほりかわ御所ごしょ に召され参らせ候ひしかば、ただ仮初かりそめ の御あい しかなと思ひ候ひしに、わりなき御志にて、人人数多あまた 渡らせ給ひしかども、所々ところどころ住居すまい にてこそ渡らせ給ひしに、これは堀川ほりかわ殿とのとり かれ参らせしかば、清和天皇の御すえ鎌倉殿かまくらどのの御おとと にて渡らせ給へば、これこそ身にとりては面目めんぼく と思ひ候ひしか。いま かかるべしとはかね ては夢にもいか でか知り候ふべき」 と申しければ、人々これを聞きて、 「勧学院かんがくいんすずめ蒙求もうぎうさえず るといしう申したるものなか」 と めける。

鎌倉殿が禅師に向かって 「殿上人に娶らせずに、なぜ九朗に娶らせたのか。それも、朝敵となった者であるというのに」 とおっしゃると、禅師は、 「靜を十五の年までは多くの人々がご所望あそばされましたが、内々差し上げる気もございませんでした。ところが法皇の御幸があった際お召し連れていただき、しでの池での雨乞いの祈りのための舞が行われました時、判官に見初められ申して、堀川の御御所にお召し出しになりました。ほんの一時的なご寵愛であろうかと思っておりましたところ、非常なご執心で、ご寵愛をなさっていた方が大勢おありであったのに、それもあちこちのお住居においでになったのに、この娘を堀川の御殿にとめ置かれあそばしたので、清和天皇の御末裔、鎌倉殿の御弟でいらっしゃることとて、それこそ私どもにとっては名誉なことと思っておりました。それが今こんな身の上になろなどとは、以前はどうして夢にも知ることができたでございましょうか」 といったので、人々はこれを聞いて、 「勧学院の雀は蒙求るとは、なるほどよくいったものよ」 といって禅師の答えを褒めた。

「さて九朗がにん じたる事は如何いか に」
「それは世に隠れなき事にて候へば、ちん じ申すに及ばず。来月には御産にて候ふべし」 とぞ申しける。
鎌倉殿梶原かじわら を召して、
「ああ恐ろし、それ聞け景時かげときすで にえせものたね 継がぬ先に、しずか胎内たいない けさせて、 を取りてうしな へ」 とぞ仰せられける。
しずか禅師ぜんじ もこれを聞きて、手に手を取組とりく みて、顔に顔を合はせて、声も惜しまず悲しみけり。
殿どの聞召きこしめ して、しずか も心のうち 、さこそと思ひやられて、御涙を流させ給ふ。
幔幕まんまくうち落涙らくるい の音おびただ し。忌々いまいま しくぞ聞こえける。
侍共さぶらいども 承りて、 「かかるなさけ なき事こそなけれ。さらぬだに東国とうごく遠国えんごく とて、恐ろしき事には言はるるに、さしものしずか を失ひて名を流し給はん事こそ浅ましけれ」 とぞつぶや き合ひける。

「ところで、九朗の子を懐妊したというが、それはどうなのか」
「それは世間でもよく知っている事でございますから、今さら隠し立て申し上げるまでもございません。来月には出産いたすことになりましょう」 といった。
鎌倉殿は梶原を呼んで、
「ああ恐ろしいことよ。よく聞け景時、あの馬鹿者の血統をまだ受け継がぬ前に、静の胎内を切り開いて、子を取り出して殺してしまえ」 と仰せになった。
靜も禅師もこの言葉を聞いて、手と手を互いに握りしめ、顔と顔とを寄せ合って、声も惜しまずに泣き悲しんだ。
二位殿もこれを聞きになって、静の心中をさぞかしと同情され、お涙を尾長氏になった。
幔幕の内部からはすすり泣きの音が激しく聞こえ、いまわしい空気となった。
侍たちもこのやりとりを聞いて、「こんな非情な話はない。それでなくても、東国は遠く離れた辺境だということで、恐ろしい所のようにいわれているのに、あれほど評判の高い靜を殺して、ますます悪名をお立てになるのは嘆かわしいことよ」 と互いにつぶやき合った。

『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ