〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/29 (月) 凶 は 吉 に 変 ず

梁田間政綱は、馳せつけた根来太郎次の口から、義元昼食の話のあらましを聞くと、そのまま馬を信長の前にすすめ、
「申し上げます」
じっと空を睨み上げて考えている信長に云った。
「今川治部大輔、ただいま田楽ヶ窪に輿をとめ、昼食中のよしにござりまする」
「なに、田楽ヶ窪に輿をとめたと・・・・」
信長は射抜くような眼をして政綱をふり返って、
「まことかそれは!?」
「はい、それがしが密偵の報告によれば、礼の者が持参したおびただしい粽と酒肴を馬廻りの者に分配し、幔幕を張らせて休息中の由にござります」
それを聞くと信長は思わず息をつめて、藤吉朗をかえりみた。
「聞いたか猿!」
「は?何でござりまする?」
藤吉朗はとぼけた表情できき返した。
むろん彼が今の話を聞いていないはずはない。
いや、それどころか、田楽ヶ窪に輿をとめ、礼の者に酒肴を運ばせて休息とあっては、あまりに話が出来過ぎていて、夢に夢見る心地なのだ。
信長も藤吉朗もどれだけそれを希ったことか。藤吉朗の知恵の成功か、信長の計らいか、それとも野武士どもの才覚の手柄に帰すべきか・・・・?
とにかく大高城に入れまいとして、あらゆる面から、あらゆる手を打ちつづけて来ている信長だった。むろん礼の者の中に、密かな信長の味方があって画策したものであることは云うまでもない。
(そうか、田楽ヶ窪に・・・・これで凶事は終ったぞ)
そう思うだけで、信長の血汐は再び高く脈打ち出し、ともすれば目頭に熱いものが流れ出そうな感慨でいっぱいだったのだ。その感慨をぐっと奥歯で噛みしめて、とぼけた藤吉朗の見ているとニヤリと鋭く唇がゆがんでくる。
そこまで知りようもない梁田政綱は、生真面目な表情で信長に云った。
「わが君、今川勢は、鷲津、丸根も両砦を陥れ、気おごって備えざるものあるかに見えまする。不意にこれを衝くべきではござりますまいか」
「政綱!」
「はいッ」
「勝ったぞ」
信長は低く云って、はじめて頭上の空に崩れだして来ている、ただならぬ黒さの雲に気づいていった。
すぐさっき南の空にふくれあがった入道雲が、はげしい勢いで来たに倒れ、黒髪をなびかすように頭上を蔽いだしている。
信長は、たまらなくなってフフッと笑った。
どうやら、礼の者の酒肴だけでなく、田楽ヶ窪で休息しだした義元の頭上には、凄まじい豪雨までが襲いかかってゆく気配であった。
「者ども、凶報は四つでやんだぞ」
信長はふたたびきっと鐙をふんばって、にんなの方をふり返った。
「これからあとは吉報が続く。この夕立は熱田の神の助力と知れッ」
その声で、みんなはいっせいに空を仰いだ。彼らもまたあまりに打ち続く凶報に心を奪われ、天候の変化にまでは気がついていなかったのだ。
「おおこれは夕立がやって来そうじゃ」
「何という雲の早さ!風も出てくる気配だぞ」
「風に乗って討てというのか熱田の神が」
一度絶望の前に立った将兵たちが、空を仰いで口々に囁きだした時、また一つ、士気を煽る知らせが届いた。
「申し上げます」
人々を分けて細い畑道を駆けて来て、信長の前に立ったのは森三左衛門だった。
「何だ三左、吉報であろうなッ」
「仰せの通り」
三左衛門は埃と汗の面を昂然と立てて膝をついた。
「ただいま、前田又左衛門利家、木下雅楽助 (ウタノスケ) 中川金右衛門、毛利河内守、それぞれ戦場より敵の首をひっさげ、駆けつけてござりまする」
「なに、又左も雅楽も金右衛もみな無事であったか」
「はいッ、これにてお目通り差し許され、お言葉くださりまするよう」
その言葉の終らぬうちに、前田又左衛門じゃじめ、四人の荒武者は、片手に一つずつ敵将の首をひっさげ、ころがるように信長の前へ出て来た。
いずれもひどい乱髪だったが、その眼は阿修羅 (アシュラ) の光を宿し、その五体は羅漢 (ラカン) の精気をたたえている。
「ワーッ」 とみんなが湧き立った。
信長はきっと四人を見やって、
「よしッ!」 と大喝した。
「よき首途 (カドデ) 手、柄話はあとで聞こう。又左!」
「はッ」
「その方、ここにとどまって、偽兵を引きつれ、旗おし立てて敵の眼を引きつけよ」
「かしこまってござりまする」
「その間にわれらは、義元が本陣を衝こうぞ、用意はよいかッ」
「おう!」
「おう!」
「おう!」
すでに黒雲は空を蔽って、ポトリ、ポトリと大粒の雨が鎧の袖をたたき出した。と、思う間もなく、ゴーッと不気味な風が一撫で、野面の緑を倒してすぎる。
「見やれッ!」
信長はまた天を指して、くるりと馬首を立て直した。
「雷雨が突風を運んでくたわ。これに乗って田楽狭間を襲おうぞ」
「おう!」
「が、近づくまではみなみな旗を巻いて行けッ、しのびやかに太子ヶ根の山際まで押しつけよ。名を挙げ家を興すのはこの一戦ぞ! ただし個人の功を急いで、全軍の勝利をのがすな。よいか、義元以外の首級はあげるに及ばぬッ。重い首を持ち歩いて、大事な主将をのがすのは、織田の上総が戦にはない手じゃ」
「おう!」
「猿! 行けッ」
「ははッ」
藤吉朗がくつわに飛びついて、パッと先頭を駆け出すと、空にキラリと描いたような電光が走り、つづいてザ、ザザーッと玉すだれを薙いだような豪雨に変った。
「それッ、御大将に遅れるなッ」
行先は相原の北をまわって太子ヶ根じゃそ」
北へ向かうと雨も風も背から鞭打つ追手であった。またキラリと空が裂けた。そして、大地を叩く雨滴のかなた・・・・南の空から、ゆるく遠雷がとどろきだした。

『織田信長 (二)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ