〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/29 (月) 虎 の 蹴 起

話は十八日の深夜・・・・というより正確に云えば十九日の八 (午前二時) にさかのぼる。
いつもより早めに床に入った信長の寝所の庭先へ案内もなくやって来て、
「殿! 殿!」
と外から呼び起こしたのは木下藤吉朗だった。
「猿かッ」
「はいッ、治部大輔の行先が分かりました。十九日は大高城泊まりでござりまする」
「なにッ、大高城!」
云うや否や、パッと飛び起きると、
「よしッ、貝を吹け」
信長は叩きつけるように命じておいて、
「お濃、具足!」
と次の間へ叫んだ。
「ハハハハ」
高らかに笑って、信長ははじめて濃姫と、再びこの場に戻って来ていた藤吉朗をふり返った。
「お濃、猿! 勝ったぞ」
「御意の通り」
「小賢しくも、橋介までが、おれの心をあておった。幸先がよい。勝ったぞ」
貝はまだしきりに鳴り続けているが、誰も城に駆けつける者はない。
そのはずだった。信長が飛び起きてからはまだ五分とは経っていないのだから・・・・信長は愛刀長谷部国重を受け取ると、深雪が運んで来た三方の前に立った。
「盃!」
{はい、酌はわらわが」
お濃は突っ立ったままの良人の手に土器 (カワラケ) の盃を渡して、神酒を注いだ。出陣の祝いの酒は、そのまま別れの盃にも通じる。
が、そんな感傷にひたる余裕は誰にもなかった。
信長はぐっと一気にそれを飲み乾すと、パッと三方の角で割って、深雪のささげる飯椀をとった。
そして、お類が起こして連れて来た子供たちにはじめて気づいて、
「戦とはこうするものぞ、覚えておけ」
叱る口調で、立ったまま四椀、湯づけを立てつづけに流し込み、箸を投げ出すのと、刀をつかむのと、居間を出るのとが一所であった。
「猿、来いッ」
「はッ」
藤吉朗はおどり上がるようにして後に続いた。
「今日の轡はうぬが取るのだ」
「はじめからそのつもりで」
「馬は・・・・・」
「疾風 (トキカゼ) !」
藤吉朗の方が先に答えた。
「疾風、ご出陣じゃぞ、急げや急げ」
馬はすでに大玄関の前へ曳かれてあって、その眼に燐光をやどしてふつい立っている。
「行先は熱田神宮!者ども続けッ」
その頃から、ようやくあちこちの侍屋敷の窓は明るくなった。
起き出して出陣の用意にかかったのに違いない。
中には具足をひっかついだまま馬を飛ばして城にかけつける者もある。
「殿は!? 殿はいずれにおわす」
「殿はとっくにご出陣じゃ」
「えっつ!? ど・・・ど、どちらへ行かれた」
「熱田神宮のご神前じゃ」
「熱田・・・・で、軍勢はどのぐらい連れて行かれたのじゃ」
「殿を入れてたった五騎じゃ」
「なに五騎!?」
「そうじゃ、お小姓組の岩室、長谷川、佐脇、賀藤、それに殿の轡を取って木下藤吉朗、全部で六人じゃ、急がっしゃい」
門番に云われて、そのまま愚息をかついで熱田へ走る者もある。
夏の夜は明けやすい。
しだいに城の矢倉がぼんやりとその輪郭を暁の空に浮きあがらせた。

『織田信長 (二)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ