〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/26 (金) 憤 怒 の 焼 香

あまりにひどい信長の姿に、平手政秀は声も出なかった。隣にいた林佐渡は、腰を浮かして、
「若殿は乱心めされたぞ」
はげしく舌打ちして、
「それっ、政秀どの」
と、云った。
云うまでもなく、あの身なりで、ここへ通してはならぬという意味であった。
政秀はおろおろした。信長の気性はよく知っている。それにしても、一生一度の父の葬儀に、みご縄の縄帯をしめて現れるとは、何を考えているのであろうか。しかも手には四尺にあまる大刀をひっさげ、腰にはもう一本、二尺四、五寸の添え差まで帯びて
「どけ」 と信長は叱呼 (シッコ) した。
さすがに三百六十人の会下僧は、あらわに信長を見はしなかった。が、会衆の眼は一つの例外もなく信長にそそがれている。信長一人の登場のため、この葬儀場の関心の焦点はあざやかに移動してしまったのだ。
ここにはすでに信秀もない。いわんや信行も、おびただしい兄弟も、哀れな未亡人たちもない。名優信長一人の登場で、二千近い会衆はふっと存在をかき消されてしまったかに見える。
信長はゆっくりとあたりを睨みまわしながら仏前に進んだ。そして最初になげた言葉は、若々しく顔をしかめている林佐渡に向かってだった。
「佐渡っ!」
「はっ」
気合であった。思いがけなくこんなところで呼びかけられては、誰でもうっかり返事する。
「大義であった。権六っ」
「はっ」
「気をつけろっ」
柴田勝家は、何と云われたのか判断する余裕もなく、 「はっ」 と答えて、しまった!と唇をかんだ。
信長は傲然 (ゴウゼン) とこんどは犬山城の信清に視線を向けた。
信清は、ぐっと顔を立てて肩をそびやかした。前の二人が、あまりにみごとにしてやられたので、この大うつけに一本やり返すつもりであった。
「この間はわざわざご苦労だったな」 と声をほそめて皮肉った。
「は・・・・・」
云ってしまって、信清はこれも顔中を真っ赤にそめた。
信長はそうした反応などみじんも心にとめている様子はない。誰にも 「太刀を・・・」 と、言う間も与えず、刀をひっさげたまま、すでに仏前の香炉の前に進んでいた。
人々はシーンと静まり返って信長一人に全神経をあつめている。
信長は大刀を左手にひっさげたまま、父の位牌をはったと睨んだ。
大叔父大雲和尚の筆になる 「万松院桃岩道見居士」 の文字が、白木の位牌の表で、人間の一生のはかなさを語り顔に光っている。
信長はそれを睨んだまま、むずと香炉の香をつかんだ。と思うや否や、その手は大きく振りあげられて、香はパッと位牌めがけてたたきつけられた。
「あ・・・・」
今まで息をのんでいた人々は、いっせいにざわめき出した。こんな乱暴きわまる焼香のしかたが、かつてどこかにあったであろうか。焼香ではなくて投香なのだ。と、次の瞬間、
「喝!」
信長は一言叫んで、四尺あまりの大刀を右手に持ち直し、ダンとはげしくこじりで床を突き鳴らした。
その気勢のすさまじさに、一度ざわめき出した会衆は、思わずハッ──と息をのむ。
と同時に信長はくるりと仏に背を向けた。
役者が全然違うのである。もはや笑う者のなければ咎める者もない。いかにも通俗なあり来たりの葬儀の空気は、この変った喪主の出現で、ピーンと鋭い緊張をとり戻した。
その中をぐっと天へ突っ立てた茶筅まげは、倣然とまたもと来た方へ引き返し、そのまま、本殿の外へ消えていった。
恐らく、葬儀の間、自分一人で少年隊とともに留守の三城を守りとおして行く気なのに違いない。
「あ、次は勘十郎信行さま」
林佐渡につつかれて、五味新蔵があわてて次の焼香者の名を呼び上げるまで、人々は焼香はもうこれで終ったかのような錯覚にとらわれていた。

『織田信長 (一)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ