〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/26 (金) 香 煙 の 内

信秀の葬儀は三月七日であった。場所は亀岳山 (キガクサン) 万松寺。
この寺は今から足かけ十年前の天文九年 (1540) に信秀がみずから建立した曹洞禅の寺であった。開山は大雲和尚。
この大雲和尚は、俗縁では信秀の叔父にあたっている。 その万松寺に今日は、街道上下の会下僧三百六十人あまりが招かれて、導師の大雲とともに仏前に向っている。寺僧をまじえて四百人近い僧侶の読経の声は、さしもの伽藍を揺すぶるばかりに荘厳さであった。
四十二歳でその生涯を閉じた織田備後守信秀は、万松院桃岩道見居士の法名を記した真新しい位牌の向うへ、その巨大な亡がらを横たえていた。本道は人でいっぱい。入りきれない家中の士は廊下にあふれ、庭には信秀をしたう百姓町人の男女があふれていた。遺族席では何と云っても数多い女たちの姿がいちばん痛ましく人目をひいた。
いちばん上座に座っているのは正室の土田 (トダ) 御前、そしてその次にはかがやくばかりにあでやかに眼立つ濃姫だった。つづいて側室が三人、これはそれぞれ産んだ子供の順に坐らせられ、最後にいちばん若い岩室どのがつつましくうなだれて坐っていた。
濃姫をのぞくほかは、十七歳の岩室どのまで、緑の黒髪をすっぽりと切り落とし、眼を赤く泣きはらしている。
その間をまた、五つか六つの姫たちが、無情も感ぜず遊び歩くのが、一層みんなの涙をさそった。
その中に市姫 (のちの淀君の母) のもまじっているのだが、市姫の顔だちは御所雛そのままの端麗さで、それが無心に、母にまつわりついたり、集まった人を見やったりするのが、たまらなく哀れであった。
男子席には勘十郎信行、次は二十五歳になる庶腹 (ショフク) の兄三郎五郎信広、十四歳の信包 (ノブカネ) 十三歳の喜蔵 (キゾウ) 十二歳の彦七朗、半九朗、十郎丸、源五朗と並び、最後が二つになったばかりの岩室殿の子又十郎だった。
まだ一番上座へ坐るべき総領の信長だけはこの場へ姿を見せていない。葬儀委員長格の平手政秀は、時々背をのばして表の方を注意している。
「平手どの、まだ若殿は見えませぬのう」
林佐渡は時々政秀をなじるように舌打ちした。
「何という変わったお方か。総領のお身でありながら、遺骨に告別ひとつしようとせぬ。何をしているのやらとんと分からず、今日もまた遅参するとは」
「いや、もうお見えでござろう」
「見えられねば読経が終わる。読経が終わればすぐ、焼香にかからねばなりませんぞ」 「分かっておりまする、もうまいられましょう」
「ご貴殿が、おそばについていて、お連れすればよかったのじゃ」 そう云うあとから柴田権六も口を出した。
「お見えにならねば、勘十郎さまからご焼香をはじめていただきましょう。大殿のご葬儀に遅参する ── いったい何ということか。海道中の笑われ者になりましょうぞ」
「いましばらく。きっとまいられまするゆえ」
政秀ひとりがハラハラとみんなに頭を下げつづけている。と、ついに読経ははたとやんで、番僧の一人が、 「ご焼香を」 と政秀と佐渡の方に会釈した。
佐渡守の手には焼香順を書きあげた記名帳が持たれている。これで次々に呼びあげてゆくのだが、この順序はいまでは想像もつかないほど、きびしくやかましいものであった」。
「どうぞご焼香を」 と、また僧侶がうながした。たまりかねて立ち上がった平手政秀の、袴のすそを佐渡はおさえた。
「第一番と、吉法師さまの名を呼びあげ、不参ゆえ、勘十郎さまにと、みなに告げるよりほかあるまい。もう猶予はなりかねまするぞ」
「だが・・・・いましばらく・・・・・来ぬようなことは決して・・・・」
政秀がしどろもどろに云ったとき、ワーッと境内でふしぎなどよめきが湧きあがった。
「見えられましたぞ。新しく上総介になたれた若殿が・・・・」
「若殿が見えられましたぞ」
「おお、見えられたか。急いでこれへ」
そう云って背伸びして、政秀はがくぜんと顔色を変えた。何ということであろうか。あれほどきちんと服装を注意して、濃姫の居間でわざわざ調べて来てあったというのに、信長は平気な顔でふだん着のままやって来たのだ。
まげは例の上天 (ショウテン) 茶筅。袴もはかねば胸も合わさず、腰にしめたは縄帯で、その周囲に火打袋をやたらに吊り、毛脛 (ケズネ) を出して四尺あまりの大刀を引きずりながら下げてくる。
政秀だけではなく、居合わす人々はいっせいに、
「あっ!」 といって声をのんだ。

『織田信長 (一)』 著:山岡 荘八 発行所:株式会社講談社 ヨ リ