〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/25 (木) 弁慶べんけい 洛中らくちゅう にてひと太刀たちうばこと (二)

弁慶少しもひるまず、さしもけなげなる人の太刀をだにもうば ひ取る、ましてこれ ほど なるやせおとこ 、寄りて はん声にも姿にも ぢて ださんずらん。乞はん れずはたお して奪ひ取らんと支度したく して、弁慶あら はれ でて申しけるは、 「只今ただいま しず まり、かたき を待つところ に、 しからぬ人のもの して通り給ふこそあや しけれ。左右さう なくえこそ通し参らせ候ふまじけれ。しか らずはその太刀此方こなた へ参らせて通られ候へ」 と申しければ、御曹司おんぞうし これを聞き給ひて、 「このほど さるをこ の者ありとは聞き及びたるぞ。左右そう なくはえこそ取らすまじけれ。欲しくば りて れ」 とぞ仰せられける。
「さては見参げざん に入らん」 とて、大太刀抜いて んで かる。御曹司おんぞうし も小太刀を抜いて、築地ついぢ のもとに走り寄り給ふ。武蔵坊むさしぼう これを見て、 「鬼神おにがみ とも言へ、当時我等われら をばかく取ってかかるべき者こそ覚えね」 とて、もて開いてちやうど打つ。
御曹司、「彼奴きゃつ の者かな」 とて稲妻いなづまごと弓手ゆんでわき へつと入り給へば、討ち開く太刀なれば、築地のはら切先きっさき を打ち立てて、抜かんとしけるひま に、御曹司走り寄りて、弓手の足を差出さしい だして、弁慶がむね をしたたかに踏み給ふ。持ちたる太刀をからりと捨てたり。おつ取りて 「えいや」 と言ふ声のうち に、九尺ばか りありける築地にゆらりと び上がり給ふ。弁慶胸いたく踏まれぬ。鬼神おにがみ に取られたる心地ここち して、あき れてぞ立ちたりける。
御曹司、 「これよりのち にかかる狼藉ろうぜき すな。さるをこ の者ありとかねて聞きつるぞ。太刀も取りて行かんと思へども、 しさに取りたりと思はんずればば取らすぞ」 とて、築地のおお ひに押し当てて、踏みゆがめて弁慶がかた へ投げかけ給へば、太刀取りて押し直して、御曹司のかた をつらげに見やりて、 「ねん なく御辺ごへん はせられて候ふものかな、このへん におはする人と見るぞ。今宵こよい こそ仕損ずるとも、これよりのち においては心許しはすまじきものを」 とつぶやつぶや きぞ行きける。
御曹司これを見給ひて、なに ともあれ、彼奴きゃつ山法師やまほうし にてあると覚ゆる。義経よしつね が太刀に目を けてぞあるらんとは思はれければ、 「山法師の器量きりょう ざりけり。器量ばかりにて生きたりぞそする」 とのたま ひけれども、返事もせず。なに ともあれ、築地ついじ より り給はん所を らんずるものをと思ひて待ち けたり。
築地よりゆらりと り給へば、太刀たち 打ち振りてつと寄り、九尺の築地より飛び降り給ひけるが、下に三尺ばかり落ちつかで取って返し、また上にゆらりと飛び返り給ふ。大国の穆王ぼくおう六韜りくとう を読みて、八尺のかべ を踏んで天に がりしをこそ、上古じょうこ の不思議と思ひしに、末代といえど も九郎御曹司は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びのうちちゅう より飛び帰り、弁慶今宵こよいむな しくてぞ帰りける。

弁慶も少しも臆さず、これまで相当に勇猛な人の太刀をさえ奪い取ったのだ。まして、この程度のやせ男など、近寄って強要する俺の声にも姿にも恐れをなして、すぐ太刀を差し出すだろう。もし強要してもよこさなければ、突き倒して奪い取ってやろうと用意をして、御曹司の前に弁慶は姿を現して言った。 「只今、息をひそめて、敵を待ち受けていたところに、胡散 (ウサン) 臭い人が武装して通られるとはいぶかしい。たやすくはお通し申さぬぞ。それがいやなら、その太刀をこちらへ差し出してお通りあれ」 といったので、御曹司はこれをお聞きになり、 「最近そのような愚か者が聞いておるぞ。そうたやすくは与えはせぬ。欲しければ近寄って取れ」 と仰せになった。
「それでは、参ろう」 といって、大きな太刀を抜いて、弁慶は飛びかかった。御曹司も小太刀を抜いて、土塀のところに駆け寄りなさる。弁慶坊はこれを見て、 「たとい鬼神であるとしても、ここ頃自分に対してこのように立ち向かって来る者はついぞ知らぬ」 と思って、身を開いて構えてちょうと打つ。
御曹司も、 「こいつは変化の者よ」 と思って、稲妻のように左の脇へつと踏み込みなさると、後ろに大きく振りかざした太刀なので、土塀の側面に太刀の切先を打ち込んでしまい、それを抜こうとした隙に、御曹司は駆け寄って左の足を差し出し、弁慶の胸をいやというほどお踏みになる。弁慶は持った太刀をがらりと取り落した。御曹司はそれを拾い取って、 「えいやっ」 という声とともに、九尺ほどもある土塀の上にゆらりと飛び上がりなさる。弁慶は胸を強く踏まれはするし、鬼神に太刀を奪われたような気持ちで、呆然として立ちつくしている。
御曹司は、 「これから以後はこのような乱暴はいたすな。そのような愚か者がいるとは、かねがね耳にしていたぞ。太刀を取って行こうと思ったが、そうすれば太刀欲しさに取ったとお前が思うであろうから、返してやるぞ」 といって、土塀の屋根に太刀を押し当てて踏み曲げ、弁慶の方へ投げやられたので、弁慶は太刀を拾って曲がったのを押し直し、御曹司の方をくやしそうに見やって、 「思いの外にそなたはおやりだな、この付近においでのお人とお見受けするぞ。今晩こそはやりそこなったが、これから以後は油断すまいからな」 と、呟き呟きしながら去って行った。
御曹司はこれをご覧になって、いずれにせよ、あいつは比叡山の法師であると思われる。義経の太刀に目をつけているのであろうと思われたので、 「山法師は人間としての器量に似合わず、人を斬る事ばかりに専念して生きているのか」 と声をかけられたが、弁慶は返事もしない。そして何としても、土塀からお下りになろうろする所を斬ってやろうと思って、待ち受けていた。
御曹司が土塀の上からゆらりと飛び下りなさると、弁慶は太刀を振りかざしてつと駆け寄る。御曹司は、九尺の土塀の上から飛び下りなさったが、まだ下に三尺ほど余して地面に足を下ろさずそのまま空中に引き返し、また土塀の上にゆらりと飛び戻りなさる。中国の周の穆王は六韜を読んで、八尺の壁を飛んで天に上ったといい、それこそ大昔の不思議と思っていたが、末の世とはいえ、九郎御曹司は六韜を読んで九尺の土塀を飛び戻るという離業 (ハナレワザ) を演じ、弁慶はそのため今夜も目的を果たせずに引きあげたのであった。

『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ