弁慶少しもひるまず、さしもけなげなる人の太刀をだにも奪
ひ取る、ましてこれ等
程
なるやせ男
、寄りて乞
はん声にも姿にも怖
ぢて出
ださんずらん。乞はん呉
れずは突
き倒
して奪ひ取らんと支度
して、弁慶現
はれ出
でて申しけるは、 「只今
静
まり、敵
を待つ処
に、怪
しからぬ人の物
の具
して通り給ふこそ怪
しけれ。左右
なくえこそ通し参らせ候ふまじけれ。然
らずはその太刀此方
へ参らせて通られ候へ」 と申しければ、御曹司
これを聞き給ひて、 「この程
さる痴
の者ありとは聞き及びたるぞ。左右
なくはえこそ取らすまじけれ。欲しくば寄
りて取
れ」 とぞ仰せられける。
「さては見参
に入らん」 とて、大太刀抜いて飛
んで懸
かる。御曹司
も小太刀を抜いて、築地
のもとに走り寄り給ふ。武蔵坊
これを見て、 「鬼神
とも言へ、当時我等
をばかく取ってかかるべき者こそ覚えね」 とて、もて開いてちやうど打つ。
御曹司、「彼奴
は怪
の者かな」 とて稲妻
の如
く弓手
の脇
へつと入り給へば、討ち開く太刀なれば、築地の腹
に切先
を打ち立てて、抜かんとしける隙
に、御曹司走り寄りて、弓手の足を差出
だして、弁慶が胸
をしたたかに踏み給ふ。持ちたる太刀をからりと捨てたり。おつ取りて 「えいや」 と言ふ声の内
に、九尺計
りありける築地にゆらりと跳
び上がり給ふ。弁慶胸いたく踏まれぬ。鬼神
に取られたる心地
して、呆
れてぞ立ちたりける。
御曹司、 「これより後
にかかる狼藉
すな。さる痴
の者ありとかねて聞きつるぞ。太刀も取りて行かんと思へども、欲
しさに取りたりと思はんずればば取らすぞ」 とて、築地の覆
ひに押し当てて、踏みゆがめて弁慶が方
へ投げかけ給へば、太刀取りて押し直して、御曹司の方
をつらげに見やりて、 「念
なく御辺
はせられて候ふものかな、この辺
におはする人と見るぞ。今宵
こそ仕損ずるとも、これより後
においては心許しはすまじきものを」 と呟
き呟
きぞ行きける。
御曹司これを見給ひて、何
ともあれ、彼奴
は山法師
にてあると覚ゆる。義経
が太刀に目を懸
けてぞあるらんとは思はれければ、 「山法師の器量
に似
ざりけり。器量ばかりにて生きたりぞそする」 と宣
ひけれども、返事もせず。何
ともあれ、築地
より下
り給はん所を斬
らんずるものをと思ひて待ち懸
けたり。
築地よりゆらりと飛
び降
り給へば、太刀
打ち振りてつと寄り、九尺の築地より飛び降り給ひけるが、下に三尺ばかり落ちつかで取って返し、また上にゆらりと飛び返り給ふ。大国の穆王
は六韜
を読みて、八尺の壁
を踏んで天に上
がりしをこそ、上古
の不思議と思ひしに、末代と雖
も九郎御曹司は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びの内
に宙
より飛び帰り、弁慶今宵
も空
しくてぞ帰りける。
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