〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/24 (水) とき みやこ おち の 事

大きに清盛これを取って斬るべきよし聞こえければ、平治二年二月十日あかつき、三人の子 どもひき具して、大和やまと の国宇陀うだこおり 岸の岡といふ所に、常盤が外戚げしゃく の親しき者あり。これをた づねてゆきけれども、それもかかる世間の乱るるをりふしなれば、頼まれず。当国、だうとうじと いふ所に隠れゐたりけるに、常盤が母、関屋せきや と申すもの、楊梅町やまももまち なるところにありけるを、六波羅ろくはら へ取りいだして、糾問きゅうもん せらるるよし聞こえければ、常盤これをかなしみ、母のいのちを助け んとすれば、三人の子ども斬らるべし。親の嘆き、子の思ひ、いづれもおろかならざれども、親 には子をばいかが代ゆべき。親の孝養こうよう する者は、堅牢けんろう 地神ぢしん納受のうじゅ したまふなれば、子どもの ため となりなんと思ひつつ、三人の子どもひき具して、泣く泣く京へぞ行きける。
六波羅に聞こえければ、悪七あくしち 兵衛ひょうえ 景清かげきよ監物けんもつ 太郎に仰せつけて、子どもを具して、六波羅へ 具足す。清盛、常盤を見給ひて、日ごろは火にも水にもなしたく思はれけるが、怒れる心もや はらぎ給ひけり。常盤と申すは、日本一の美人なり。九条院はことを好ませ給ひければ、洛中らくちゅう より、容顔ようがん 美麗びれい なる女を千人召されて、その中より百人、百人の中より十人、十人の中より一 人 られたりける美女なり。
清盛、われに従はば、末代まつだい は、子孫の為にはいかなるかたき にもならばなれ、三人の子ど もをば助けばやと思はれける。頼方・景清に仰せつけて、七条朱雀しゅじゃく なるところにぞ置かれける 。非番ひばん当番とうばん をも、頼方がはからひにしてぞ守護しゅご しける。
清盛つねに常盤がもとにふみ を遣はされけれども、取りてだにも見ず、されども子どもを助けんが為に、つい に従ひけり。さてこそ常盤が子どもをばところどころにてこそ成人せさせけれ。
今若八歳と申す春の頃より、くはんぜう寺にのぼせ、学問せさせ、十八の年受戒じゅかい して、禅師ぜんじ の君とぞ申しける。後には駿河するが の国富士の裾野すその に、阿野あの と申す山寺に、仏法興隆しておはしけるが、悪禅師殿とぞ申しける。
乙若八条におはしけるが、僧なれども、腹あしく恐ろしき人にて、加茂、春日、稲荷、祗園の御祭ごとに、平家を狙ひ、後には紀伊の国にありける叔父おじ 新宮十郎行家、世を乱りし時、東海道墨俣すのまた 川にて討たれけり。
おとと の牛若は、四の歳まで母のもとにありけるが、世の幼き者よりも、心ざま、振舞ふるまい も越えたりしかば、清盛つねは心にかけてのたま ひけるは、 「かたき の子を一所ひとつところ に置きては、つい にはいかがあるべき」 と仰せられければ、京より東、山科やましな といふ所に、源氏相伝そうでん の者遁世とんせい してかす かなる住居にてありけるところに、七歳まで置きて育てけり。

平清盛がこの子供達を捕らえて斬るに違いないという噂が伝わったので、平治二年二月十日の明け方、常盤は三人の子供を引連れて、大和国の宇陀郡岸岡という所に、遠縁の親しい者がいたので、これを訪ねて行ったが、それもこのような世の中が乱れている時なので、頼りになってくれない。やむなく、その国の大東寺という所に隠れていた。
ところが、常盤の母の関屋という者が、京都の楊梅町という所に住んでいたのを、平家方が六波羅へ呼び出して厳しく取調べをなさっているという噂が耳に入ったので、常盤はそのことを悲しみ嘆いた。母の命を助けようとすれば、三人の子供が斬られるであろう。子供を助けようと思えば、年老いた母の命が奪われようとする。親についての嘆き、子への思い、どちらも疎略にはできないが、わが子のためにどうして親を見殺しにすることができよう。親に孝行を尽くす者は、堅牢地神もその願いをお聞き届けくださるということだから、そうするのがかえって子供のためになるに違いない。と心に言い聞かせながら、三人の子供を引連れて泣く泣く京都へ出かけて行った。
そのことが六波羅へ伝えられたので、悪七兵衛景清・監物太郎に命じて、子供もろとも早速六波羅へ引き立てた。
清盛は、常盤をひと目ご覧になって、それまでは火責め水責めにもしてやりたいものと思っておられたが、その怒りの気持ちも急にとけてしまわれた。常盤という女は、日本一の美人であったのだ。九条院は行事好きでいらっしゃたので、京都中から顔かたちの美しい女を千人お集めになり、その中からまず百人を選び、その百人の中からまた十人を、その十人の中からさらに一人を選び出された。常盤こそ、その選り抜きの美女であったのである。
清盛は、自分の意に常盤がもし従いさえするなら、将来自分の子孫にとってそれがどんな敵になったとしてもかまわぬ、その三人の子供の命を助けてやろうと思われた。そこで頼方と景清とに命じて、常盤親子を七条朱雀という所にお置きになった。毎日の見張り当番の交替も、頼方の指揮に任せてこれを警護させた。
清盛は、始終常盤のもとに手紙をお届けになったが、常盤はそれを手に取ってみようともしなかった。けれども、子供を助けたいとの一心で、とうとうその意に従った。そういういきさつがあったればこそ、常盤は子供たちを、各所で成人させることができたわけである。
今若は、八歳になった年の春頃から観音寺に上げて学問をさせ、十八歳の年に出家の儀式をとりおこない、禅師の君と世に呼ばれた。後には、駿河国の富士山の裾野にある阿野寺という山寺で、仏教の興隆につとめておられたが、悪禅師殿と世に称せられた。
乙若は、八条にお住まいになっていたが、僧ではあったが腹黒く恐ろしい人で、加茂神社・春日神社・伏見稲荷社・祗園社の祭礼のたびごとに、平家をつけ狙い、後年になって紀伊国のいた叔父の新宮十郎行家が反乱を起こした時、その味方をして東海道の墨俣で討たれた。
弟の牛若は、四つの歳まで母常盤のもとにいたが、世間一般の子供より性質や行為がたちまさっていたので、清盛も始終気にして、 「敵の子を自分と同じ所に置いていては、結局はどんなことになるかわからない」 とおっしゃっていたので、京都より東の山科という所に、源氏の代々の家来が世を遁れてひそかに隠れ住んでいたその家に、七歳になるまで置いて育てたのである。

『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ