〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/24 (水) よし とも みやこ おち の 事

本朝ほんちょう のむかしをたづぬるに、 むら利仁としひと将門まさかど純友すみとも保昌ほうしょう頼光らいこう 、漢の樊?はんかい陳平ちんぺい 張良ちょうりょう は、 ゆう といへども、名をのみ聞きて目には見ず。 のあたりに芸を世にほどこし、万人ばんじん の目をおどろかし給ひしは、下野しもつけ かみ 義朝よしともすえ の子、源九郎義経とて、わがちょう にならびなき名将軍にてぞおはしける。
父義朝は、へい 元年十二月二十七日に、 門督もんのかみ 藤原ふじわら 信頼のぶよりくみ して、京のいくさ にうち負け、重代じゅうだい郎等ろうどう ども、みな討たれしかば、そのせい 三十余騎になりて、東国のかたへぞ落ちける。 成人せいじん の子どもひき具し、おさな きをば都に て置きてぞ落ち行きける。嫡子ちゃくし 鎌倉のあく げん 義平よしひら 、次男中宮大夫進ちゅうぐうのたいふのしん朝長ともなが 十六、三男兵衛佐ひょうえのすけ頼朝よりとも 十二なる。
悪源太を北国のせい を具せよとて、越前えちぜん の浦へ。それもかな はざりけるにや、近江おうみ の国石山寺にこもりゐたりけるを、平家聞きつけて、妹尾せのお難波なんばの 次郎をさしつかはして生捕いけど りにして都へのぼり、六条河原にて、ぢきに られけり。
弟の朝長も千束せんぞくがけ と申す所にて、山法師大矢おおや注記ちゅうき が射ける矢に、弓手ゆんで膝口ひざぐち を射られて、美濃みの の国に青墓あおはか といふ所にて死ににけり。
そのほか子ども腹々はらはら多数あまた ある。尾張おわり熱田あつた大宮司だいぐうじ の娘の腹にも子あり。遠江蒲とおとうみかばといふところにて成人したりければ、かば御曹司おんぞうし とぞ申しける。のちには三河守みかわのかみこれなり。
九条の雑仕ぞうし 常盤腹ときわばら にも三人あり。今若いまわか 七、乙若おとわか 五、牛若うしわか 当歳とうさい なり。

わが国の昔の例を尋ねてみると 、坂上田村麻呂・藤原利仁・平将門・藤原純友・藤原保昌・源頼光、それに漢の樊?(ハンカイ) ・陳平・張良は、いずれも武勇の士であったというが、その名を聞いているだけで実際に目で見たわけではない。それに対し、眼前にその武勇の程を世に示し、天下の人々の目を驚かされたのは、下野の左馬頭義朝に末っ子の源九郎義経という方で、まさに本朝無双の名将軍でいらっしゃった。
その父の義朝は、平治元 (1159) 年十二月二十七日に、衛門督藤原信頼に加担して、京都での戦いに敗北を喫し、先祖代々仕えてきた郎等たちも、この戦いでみな討たれてしまったので、その勢三十余騎というありさまになって、東国の方角へと落ちて行かれた。元服した成人の子供を引連れ、幼い子供は都に置き去りにして落ちられたのである。同行したのは、嫡子の鎌倉の悪源太義平、次男の中宮大夫進朝長十六歳、三男の兵衛佐頼朝十二であった。
義朝は、悪源太義平を、北国の軍勢を駆り集めよといって越前の蒲へ下向させた。だがそれも首尾よくゆかなかったのだろう。義平が近江国の石山寺に潜伏しているのを平家方が聞きつけ、妹尾・難波次郎を遣わして、これを生け捕りにし、都へ引き立てて、六条河原で即座に斬られた。
弟の朝長も、千束が崖という所で、山法師の大矢の注記という者の射た矢で、左の膝を射られ、美濃国の青墓という所で死んだ。
義朝には、そのほかにも腹違いの子供が方々に大勢居た。尾張国熱田の大宮司の娘との間にも子があった。遠江の蒲という所で成長したので、これを蒲の御曹司といった。後には三河守と称せられる方がこれである。
九条院の雑士女 (ゾウシメ) の常盤のもとにも三人居た。今若七歳、乙若五歳、そして牛若はまだ生まれたばかりであった。

『義 経 記』 校注・訳者:梶原 正昭 発行所:小学館 ヨ リ