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その翌 る日であった。 義経は、古高松の兵火の跡に、気の毒な災民たちを視み
て歩き、救恤きゅうじゅつ の策をたてて、その帰り道を、六万寺へまわって来た。 ここでも、一堂に枕を並べている傷者を見舞った。源氏の将ばかりでなく、平家の手負いも収容されていたのである。平家の兵は、顔を濡らして、ただ、彼の姿へ目礼していた。 そこを出て、義経はふと、 「この六万寺には、かつて平家のおいとけなき主上が、屋島の造営しつらえ
が成るまでの間、しばし仮の内裏だいり
を置かせ給うたこともある由。── 麻鳥、その玉座のあとは、どの辺りか」 と、たずねた。 麻鳥もまだ奥深いその辺りまでは見てもいない。 ──
で、紙燭しそく を手にしながら、義経の先に立って、ここの無住久しき廃院の奥を探って歩いた。 「おお、何やら、えならぬ香か
も残っております。もしや、玉座はこの床ゆか
ではありますまいか」 上あ
げ畳たたみ の間には、破れ御簾みす
が、そのまま朽ちてい、侍座じざ
の公卿や、女院や一門の人びとの、ここに居流れた夜の様もどこか偲しの
ばれる。 「麻鳥、紙燭しそく
をここへ」 義経は、太い丸柱の前に佇んで、その木の肌へ、顔を寄せていた。 麻鳥が横から灯を翳すと、柱に書いてあった幾首かの歌の美しい文字のあとが、陽ひ
の目も見ずにあったため、なお昨日の筆のように、鮮あざ
らかに読まれた。 |
今日までも あればあるかの 我が身かは 夢の中にも 夢を見るかな 門脇中納言教盛 |
行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花やこよひの 主あるじ
ならまし 薩摩守忠度 |
いづことも 知らぬ逢ふ瀬の 藻塩草もしほぐさ
かきおく跡を かたみとも見よ 三位中将重衡 |
世のなかは 昔がたりに なりぬれど 紅葉の色は 見し世なりけり 皇后宮亮こうごうぐうのすけ
経正つねまさ |
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そのほかにも、経盛の歌、治部卿じぶきょう
ノ局つぼね の歌など、幾つか見える。いつ、どんな夜に、一門の人びとが名残の歌莚うたむしろ
に更ふ けて、はかない “生けるしるし”
をここの柱にとどめおいたのか。 「・・・・・・」 紙燭の明りは、義経の横顔に、いつまでも、小さい揺らぎをくり返していた。彼のひとみは、美しい墨の跡に凝然ぎょうぜん
と吸いつけられ、われを忘れているふうだった。いや昨夕、八栗半島の一峰から、黙々と降りてくる途中の思いを、ここでも新たにしたのかも知れなかった。 |
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閑話休題。 ──
六万寺の柱に題した平家人へいけびと
たちの歌は、ずっと後の天正年間まで残されてい、当時の長曾我部ちょうそがべ
元親もとちか も、この寺へ立ち寄って見たことがある。そのさい、元親は、平家人のやさしさに打たれて
「大事に保存せよ」 と寺僧に命じて帰ったが、時しも戦国時代なので、ある年の戦乱に、土佐の兵が、寺に火をかけたので、柱もともに焼けてしまった。元親は大いに惜しんで、後日、放火した兵を調べ出し、その者の首を刎は
ねたということである。 これは、 “讃陽綱目さんようこうもく
” という郷土史書にみえる数百年後の後日談だが、余韻ある話なので、逸しるのも惜しいと思い、わざとここに書き添えておく。 |