〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
や し ま の 巻 き

2014/03/16 (日) おうぎ (三)

近くの寺から来た数名の僧は、ねんごろな読経の末、こうねん じて、やがて帰りかけた。
すると、義経は、その僧たちを、呼び止めて、
「陣中なれば、取らすべき布施ふせ の物だに候わず。この馬は、さきに義経が、五位大夫ごいのたいふじょ されしとき、馬にもよろこびを けんと、そのおりより “大夫黒たゆうぐろ ” と名づけたる馬。はや、老い疲れたれど、宇治川、鵯越えも、越えたる愛馬。── これなん、御寺みてら寄進きしん し参らすれば、老後までも、大事にして、飼い養いおかせ給え」
と、一封のかねを、飼糧料かいばりょう として添えて、贈った。
「こは、馬にまで、御慈愛を・・・・」
と、僧たちは、三拝の礼をした。そして大夫黒の手綱を引いて帰って行った。
また、駄五六は、ゆるしを得たので、麻鳥と一しょに、菊王丸の亡骸を背中に負って、
「どこぞ、朝夕、鳥の でもするような静かな土へ」
と、葬る場所を、あちこちと、尋ねて歩いた。
── こうして、この日、二月二十日も、いつか半日を過ぎ、屋島の東側の浦へ、濃い山翳やまかげ りを落として、やがて、ひつじ下刻げこく (午後三時) ごろ。
一過いっか修羅しゅら のあとは、急に一時、しんとして来て、何事もないいつもの浦風や波音の日よりも、かえって一そうせき とした一瞬がただよっていた。
── すると、なぎさ の方から、物見の一騎が、
「おん大将、おん大将やおわす。 なものが、沖より近づいて見えまするぞ」
と、物々しげに らせて来た。
幕舎を張らせて、ひと休みしていた義経は、すぐ立って、
「何事ぞ、吾野あがの 余次郎よじろう ── 次の新手か」
「いや、戦わんとする新手ともおぼ えませぬ。── 沖なる平家の船陣を離れたただ一艘の小舟、上には、柳の五衣いつつぎぬ に、くれない の袴をはいたる小女房一人を立たせ、こなたの岸へ向かって ぎ近づいてまいりまするので」
「はての?」
せぬ面もちであったが、
「弁慶。わしのかぶとを」
と、一時脱いで、彼の手に預けておいたかぶと を取って、きっと、 を締め、
「平家よりの軍使いくさづかい いか、さなくば、何かのはかり でやあらん。ともあれ、義経が見とどけん」
と、駒へ乗った。
彼に続いて、諸将も馬をそろえ、い一せいに、浦の汀まで、駆け出した。
海の色は、ひる ごろよりも、あお の深さをずっと加えている。
── なるほど。
女官すがたの一人の上臈じょうろう を乗せた小舟が、それ一艘のみ、瑠璃るり いろ の波を切って、こなたへ、 ぎ近づいて来るのが見える。
そして、なんの謎か。
小舟のわき板の辺りから、高々と、旗竿を立て、その先に、旗ではない、紅地べにじ に金の日の丸を描いた扇を一つかか げていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ