〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2013/12/23 (月) 一 つ の 岡 (二)

── 自然、麻鳥の存在を “ふた股者またもの ” と見、悪しざまに、味方の内へ言いふらした。
麻鳥は、さっそく、一書をしたた めて、義経の陣所へ使いを走らせた。書面には、

── 医の本来は、人間の業悩ごうのう を救い、生命の尊さを知らしめるにあり、敵味方の差別視は、医師にはありません。
医は、あくまで、一視同仁です。
貴嘱きしょくこうむ って、拙医事、ただ今、宇奈五ノ岡にあり、あわれなる傷者の治療に微力を傾けつつありますが、願わくば、敗軍の平兵も、あわ せて、この仁施にんせよく させたいものと考えずにはいられません。
右、医としての念願やみ難く、寛仁なるみゆるしを、伏して い奉ります。

とあり、彼らしい思いが文字にあふれている。
一読すると、義経は請いを入れ、彼の書面の横に 「右ノ願出デ、陣医麻鳥ノ意ニマカナリ 」 と自筆で書き添えて返してやった。
麻鳥は、それを壁に り出した。
そして、一同を呼び集めて、
「これこの通り、おん大将のお心も、麻鳥が思いと変りはない。以後、平家の兵も、病みきず ついた者は、みな救うて来て、あたたかい心で、手当てをしてやらねばならぬぞ」
と、言い聞かせた。
たれにも、憐れはある。救う力があれば、助けてやって、人のよろこびを見たい人情は持っている。公然なる印可が出たとわかると、それからは、平家方の傷者もつぎつぎに、かつ ぎ込まれて来た。
そして、源氏の兵と、おなじ床に枕を並べ、源平無差別な医療や食物を与えられたので、われに返った平家の兵は、
「これはまた、どうしたわけか」
と、いぶかり合い、そして、麻鳥からそのわけをねんご ろに聞かされると、みな涙を流して、彼の手にとりすがった。
── こうした宇奈五ノ岡の薬院にも、大きな動揺が起こった。源氏の全軍が、都へ凱旋がいせん すると聞こえたからである。── 病床の枕をもたげて、
「これしきの手傷だ、おれは還る」
「おらも凱旋がいせん したい」
「わしも還るぞ」
と、言い始め、平兵を除く以外の大部分の傷兵たちは、むりに傷口を包み、痛みをこら えて、おのおの、ここを立つ身支度をしていた。
その中の一人に、熊谷直実の子、小次郎直家もいたのである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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