〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/11/07 (木) せい へん しら かわ (三)

二十六日中、洛内は、黒煙くろけむり の下だった。
「── おひそ み先は叡山とか」
自然、伝え聞いた院の近臣だの、都のどこかに隠れていた公卿たちは、前後して山へ登って来た。
前関白さきのかんぱく 基房もとふさ をはじめ、九条兼実、花山院かざんいんの 兼雅かねまさ中御門なかみかど 宗家むねいえ源中納言げんちゅうなごん 雅頼まさより参議さんぎ 通親みちちか 、藤原経房、高階たかしなの 泰経やすつね中納言ちゅうなごん 実定さねさだ などから ── 四位しい五位ごい の人びとまでが、
「平家の内にも捲かれ給わず、身をもって、虎口ここう をのがれ給い、かく、御安泰ごあんたい なる様を見ることのうれしさよ」
と、床上しょうじょう や庭に集まって、うれし泣きするもあり、恐ろしさを語るもあり、何しろ、一人一人が通って来た昨夜からの恐怖と苦労も、ひと通りではなかったらしい。
それらの人びとの聞き知るところを綜合してみると、主上は平家にほう ぜられて西海へ、摂政せっしょう 基通もとみち は、一たん北洛の紫野に隠れたが、平家の追捕を恐れて、なおも吉野の里へ逃げて行き、皇太后宮こうたいごうのみや 、そのほかの女院、宮々の皇子みこ がたは、八幡やはた加茂かも嵯峨さが太秦うずまさ 、西山、東山の奥などへ、思い思いに、難を避けて、逃げ隠れしてまわったらしい。
法皇は、御座ぎょざ にあって、
「では、今日の都は、君もなく、まつり もなく、検非違使けびいし もおらぬ、暗やみの府か」
憮然ぶぜん として、そこから木の間越しの、遠い空を見ておいでになったが、お口のうちで、
かえ らねばならぬ。すぐにもかえ らぬことには・・・・」
と、繰り返して、つぶやかれた。
かなたの黒煙もしずまらぬ間に、ここではもう仮の院議が開かれた。諸卿の胸はなお恐怖の妄想もうそう から抜けなかったが、法皇の眉宇びう は、まったく、べつであった。明日からの御抱負に、もう、その御才気や意力を用意するかのようなお顔つきなのである。
「なに、宮庫きゅうこ の内より、三種の神器じんぎ を、平家が盗み去ったりと、おことらは、なげ き合うのか。都をお捨てになった主上は、すでに、主上にあらず。神器も、皇室に置かれてこそ、神器と申すなれ。何を、さは」
と、それからの難問題にさえ、当惑の御様子もなく、かえって、諸卿を励まされた。
「── 三種の神器も、いつか、事のう都へ取り戻す策をめぐらすまでぞ。総じて、皆も、今日よりは心をだい に持ち、平家一掃いっそう のあとに、新たなまつり をもって民へのぞみ、院中の清新をも、心がけねばなるまいぞ」
院議中に、木曾殿からの使者があった。── 参上して、天機をお伺い申し上げたい、拝謁はいえつ を賜りたい、というのであった。
「ならぬ」
と、後白河は、お退しりぞ けになった。
「ここは、木蔭こかげ の宿り、仮の仙洞せんとう (御所) でもない。かつは、院宣いんぜん もまたず、われから推参せんなどとは、慮外りょがい にもほどがある。木曾が、さまでに思うなら、明日、輿こし の供をして、都までまろを送って参れ」
おそらく、使者は、法皇の仰せのままを、木曾殿の耳へは入れなかったことであろう。
けれど、法皇が、円融坊御所の御潜伏を、わずか一日にとどめ、明二十七日にはもう洛内へ還る御遺志らしい由は、義仲の耳へも達したに違いない。
義仲は、麾下きか の今井兼平、錦織冠者にしごりのかじゃ 義広よしひろ 、落合五郎、稲津新介などに、兵三千をさずけて、
「明日、法皇を御守護申し上げて山をくだ れ、おれの下山は、次ぎの日としよう。木曾が一代の晴れの入洛。ずいぶん、おれも武者どもも、美々しゅうよそお って行こうと思うぞ」
と、言った。
もう手の中の都だった。
入城の日を待つばかりな将軍の は、はやくもそこの楽園を夢見ることしきりらしい。
木曾が山門に登ってここに陣した日から、その日は、五日目であった。── わずか五昼夜、秋さえ色の深まぬ間に、世間は全く一変した。これも季節の歩かのように、極めて自然らしく、何もかも変わってしまった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ